「秋色」
byもっぷ
ゆらり、とたちのぼる湯気。
赤や黄色で溢れた色彩を柔らかく薄めるスクリーンとなる。
湯船から見えるのは、一面の色彩。
赤や黄色や橙や、そして深い深い緑に、青い空。
夏の南国とはまた一味違った、色の洪水。
都会と違ってほんの少し外気は冷たいけれど、それもこの湯の中にいれば感じることもない。
「は〜、ごくらくごくらく」
と、悠理は湯の中に手足を伸ばした。
すでに日は傾き始めてるとは言っても、まだ午後早い時間である。他の客はチェックイン前だったりここらを散策していたりするのだろう。
立ち寄り入浴も断っているので、この宿の宿泊客の他にこの露天風呂に浸かりに来るものはいないのだ。
この温泉地、温泉に浸かりながら見事な紅葉を楽しめるということで、かなり人気は高いらしい。
「あんとき、兄ちゃん、妙な顔してたよなー」
悠理は口まで湯にもぐり、泡をぶくぶくと立てながら呟いた。
もともとここを予約していたのは悠理の兄、豊作だった。外国人の取り引き相手の接待のために押さえていたらしい。
だが、その相手は家族の急病ということで来日できなくなった。
「友達とでも行くかい?」
兄に言われたとき、悠理は一瞬の間を置いてから「うん!行く!」と食いついた。
自分でもそのときの表情がいつもの自分ではなかったのだろうなと、思う。
素直に楽しみだと思う気持ちはもちろんあった。
“あいつ”がどんな顔をするだろうか、と企むような気持ちもあった。
そしてなにより、自分で決めたことへの、恐れだとか、不安だとか。そんな気持ちもあったのは確かなのだ。
そんな彼女にしては複雑な心情が、恐らく顔に表れていたに違いない。
兄は、少なからず面食らっていたようだった。
まさか彼女が誰とここに来ているかまではわかってはいなかったのだろうけれど。
悠理が脱衣所から出ると、ちょうど“あいつ”も出てきたところのようだった。
「おや、いいタイミングだったようですね」
にっこりと笑む男の前髪はいつもと違ってさらりと降りている。そして浴衣姿になったことでその頑丈な身体がいつもより強調されていた。
悠理はかっと頬を赤らめると視線を逸らした。
「部屋帰るぞ、清四郎」
前髪を下ろしたこの男を見るのはもちろん初めてではない。膝枕をしてやった時だって前髪は下りていた。
浴衣姿だって何度も見ている。水着姿だって、上半身裸の姿だって、何度も見ている。
だけど悠理は高鳴る胸を抑えきれなかった。
二人が“恋人”になってから初めての、一泊旅行なのだから。
部屋に入るなり、悠理の身体に背後から男の頑丈な腕が絡んできた。
「おい!」
と、その腕を静止しようとする声が裏返りそうになった。
「湯冷めしないように“コート”ですよ」
「いらん!暑い!」
首まで真っ赤にして悠理が怒鳴ると、清四郎はくすくす言いながら手を離してやった。
「本当は部屋つきの露天風呂の中で“コート”してあげたかったんですけどねえ」
耳元できっちりそう囁くのも忘れずに。
案の定、彼女の拳が飛んできたが、難なくかわした。
彼にしても、距離を測りかねていたのだ。
たぶんおそらく、彼女からここへ誘ってくれたということは、彼女なりに心の準備ができたということなのだろう。
昨年の秋から歩みを進めてきた彼らは、この夏にようやく想いを告げあって恋人同士になっていた。
けれど照れ屋の彼女に合わせてゆっくりゆっくり進展してきた二人は、まだ身体を交し合ってはいなかった。
急ぐつもりはなかった。
今回もなるべく彼女に苦痛を与えぬよう、彼女が怯えてしまわぬよう、時間をかけてほぐしてやるつもりだった。
だが湯上りの彼女の姿は、そんな彼にとって目の毒以外の何者でもなかった。
チェックインしてすぐさま温泉に入ったりなどしなければよかった、とまで思ったのだ。
匂い立つ甘い香、上気したもちもちの肌、潤んだ瞳、色づいた唇。
今とてよくも腕を解けたものだ。
清四郎は少し頭を冷やそうと、障子を開けて冷蔵庫から出したミネラルウォーターを片手に応接セットのソファに腰掛けた。
すると悠理も向かいのソファに腰掛けた。
「こっちのソファ、もう一人くらい座れますよ」
からかうように言うと、
「ばーか」
と、清四郎の方を見もせずに、彼女は返してきた。
彼はふっと彼女の赤い顔を見て、そしてその視線を追うように、窓の外へと目を向けた。
青空。常緑樹の緑。それらを背景に広がる、黄色と、赤。
鮮烈な、血よりもなお赤い、赤。
悠理は目に痛いほどの色の洪水を見、さやさやと木々が風に吹かれる音を聞いているうちに、段々と心が落ち着いてきた。
この景色を清四郎と見ることができて本当に良かった、と思えるほどの余裕も出てきた。
が。気づくと頬に痛いほどの視線を感じていた。
「なんだよ?」
ちらりと目だけを向かいの男へ向けると、彼女と同じく外を見ていたはずの男の視線が再び彼女の顔へと戻ってきていたのだった。
「いえ、悠理の唇も赤いな、と」
「風呂上りだからな」
むす、と怒ったように言う彼女は本当は怒っていない。照れているだけ。
やはり、我慢できそうもないな。
彼は不意に立ち上がると、驚く彼女を横抱きに抱き上げた。
彼女を畳の間のほうへ移動させ足を下ろすと、肩を抱く腕はそのままに、空いた手で障子を後ろ手に閉めた。
「せいしろ?」
見上げるその瞳に、清四郎は惹きつけられる。
抱いている肌の柔らかさに、眩暈がする。
彼は貪るように彼女の唇を奪った。
彼女の身体を閉じ込める、彼の筋肉質の胸。腕。
彼女は男の全身が発する男の匂いにすべての思考を絡め取られ、男の腕に、胸に、脚に、がっちりと身体を絡め取られた。
しばらく舌を絡めあった後、唇を顎のほうへと滑らせ、手を帯の結び目のほうへと伸ばすと、彼女が抗いの言葉を口に出す。
「宿の人・・・来ちゃ・・・う・・・」
「夕飯までまだ間があります」
「や、まだ明るい・・・」
「“秋の陽は釣る瓶落とし”ですよ。すぐに暗くなります」
それに、
「綺麗だから。恥ずかしがらなくていい」
と、彼は彼女の瞳を覗き込んだ。
その黒い黒い瞳に、彼女は陥落した。
赤い葉を一枚。
彼女の首に。
可愛い声を上げる彼女の首に。
赤い葉を一枚。
彼女の鎖骨に。
のけぞり蠱惑的な曲線を描く鎖骨に。
赤い葉を一枚。
彼女の双丘に。
白く白く柔らかな双丘に。
彩り染まる。
白い肌を背景に、見事な赤に。
赤い葉を一枚散らすたびに、彼女も彩り染まりゆく。
短く儚いこの季節のように。
ただひと時。ただひと時。
悠理の瞼の裏も、燃えるような緋色。
ただ、緋色。
「悠理。愛してますよ」
準備を整え、一息つく。
すっかりと彼の愛撫にとろけていた彼女も、少しだけ正気が戻ってきたようで、その声ににこりと笑んでくれた。
「大好きだよ、清四郎」
瞬間、障子から差し込む陽光が金色へと変化した。
すべてが、黄金色に、輝いた。
やがて、すべては白に、帰す。
結局、夕食に舌鼓を打った後、悠理は清四郎の初志の通りに部屋についている露天風呂で“コート”をされていた。
庭の紅葉も無理にライトアップはされておらず、部屋から漏れる光のみがその色を闇に浮かび上がらせている。
「今日はあなたの新しい一面をたくさん知りましたよ」
清四郎が悠理の耳元に囁く。その手は不埒な動きをしたいのはやまやまだったが、ここでのぼせてしまっても間抜けなので彼女の腰に絡めただけでおとなしくしている。
「あたいも今日はお前のことでよーくわかったことがあるぞ」
悠理も清四郎の胸に背を預けながらも、顔はまっすぐに夜空を見上げたままで口を尖らせた。
「おや、なにか不満の旨でも?」
「・・・お前、めちゃくちゃスケベだ。予想してたけど」
愛しい恋人のあんまりなセリフに、清四郎は心外だと言わんばかりに眉を上げた。
「好きな女性に対してスケベにならない男のほうが失礼ですよ」
「そ、そういうレベルの問題じゃないやい!」
と、彼女は思わず首を回して振り向いてしまった。
彼女の不機嫌そうな上目遣いの視線に、清四郎の目が細くなる。
そんな態度を見せられてスケベにならないでいる自信などもとよりありはしない。
「悠理。今日はね、僕自身のことでも一つ気づいたことがあるんです」
突如話を逸らされて「え?」と目を見開く彼女の頬を両手で包む。
「悠理の『大好き』を聞くと気が狂いそうに嬉しい自分に。きっと悠理への気持ちを自覚していなかった頃でさえ、悠理の『大好き』を聞くためなら僕はなんでもできたんだってことに」
『ミロクちゃん、愛してるよー』『かれーん、大好きー』『のりこちゃーん、好きだぜー』。
それは悠理が親愛や感謝の情を表現するための口癖。
けれど清四郎と付き合うようになり、その言葉が用いられる頻度は著明に減った。
悠理自身はそのことに気づいているのだろうか?
「悠理、これから先もずっとずっと、その言葉を僕にだけは聞かせてくださいね」
「お前こそ、これから先はあたいだけだかんな」
「もちろんですよ」
じゃあ、今夜またあなたに対してスケベになるお許しはもらえましたね、と清四郎は口の端をあげた。
(2006.10.23)
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