憂鬱な朝を迎えるのは、今日で何日目なのか。
しかし、もう終らせようと、野梨子は決めていた。
切ないながらも何気ないやりとりに幸せを感じていられたのも、ほんの僅かな間だけであった。
想う気持ちよりも、罪悪感に苛まれることの方が胸を苦しくさせていた。

野梨子は軽い眩暈を感じながら、自宅の門をくぐった。
程なくして隣家の幼馴染の声が聞こえる。
「おはよう、野梨子。昨夜も眠れなかったんですか?顔色が悪いですよ?」
心地良いはずだったその声が、あの日からただ胸を苦しくさせるだけになってしまっていた。
愚かな事をした仕打ちなのだろうか。
大切な人たちを傷つけてしまった報い。
野梨子は思い出せる限りの自分のいつもの笑顔を思い出し、それを顔に貼り付けた。
「大丈夫ですわ。それに私よりも、清四郎。御自分の心配をした方がよろしいのじゃなくて?目の下のそのクマ、日に日に酷くなってますわよ?」
苦笑しながら自分の目元に手をやる清四郎に、もう一度笑いかけた。
大丈夫、この人の前でまだ笑える。
笑わなければ、と思いながら。

眠れない日がお互い続いていた。
それぞれ、心の中にあるものを吐き出せぬままに。
野梨子は少しやつれた清四郎の顔をもう一度見た。
そして、やはり悠理には敵わない。どうしたって、自分には清四郎をここまでにすることは出来ないと、認めざるを得なかった。
こんなに苦しむのは、それだけ彼女を想っているからだ。

「そんなに気になるのでしたら、直接本人に聞けばよろしいのに。いつもの清四郎らしくありませんわね」
「いつものあいつになら、それは・・。でも、あんな風にあからさまに、それもあんな泣きそうな顔で避けられてはね。流石に僕も堪えますよ」
学校までの道程は、ゆっくりとしたこの歩調でも時間はそう残されていない。
せめて、二人でいられるこの時間に終わらせようと野梨子は決めていた。
そして、学校についたら次は悠理に話をしなければならない。
この数日の間で、彼女を苦しめてしまった事を謝らなければならない。
気持を抑える苦しさを知りながら、それを彼女の優しさに漬け込むような真似をして苦しめてしまった事を。
あの時は、そうするより他にどうしようもなかった事を。

「悠理は頑固なところがありますわよ?待っているだけでは、何も話さないんじゃないのですかしら」
「はぁ、まぁ、そうですけどね」
珍しく歯切れが悪いのも、本人は自覚しているのだろうか。
悠理の事で悩んでいます、という看板を背負って歩いてるほど余裕のないこの幼馴染をこの数日の間に嫌というほど見せつけられた。

野梨子は改めて自分の愚かさに気付いた。
どうしてこんなに悠理を想っている清四郎を、なんとかできると思ったのだろうか。
ずっと、清四郎の気持ちには気付いていたはずなのに。
悠理もまたこの男を思っていると気付いた時、どうして素直に祝福してやれなかったのだろう。
どうして、手にいれる事が出来るだなんて思ってしまったのだろう―――。

「・・・・りこ?野梨子?」
「え?」
「大丈夫ですか?本当に。もし辛いなら、生徒会室か保健室で無理せず休むんですよ?」
引き返すには、家は遠すぎるところまで来ていた所為か、清四郎が表情を伺いながら困った様にいった。
「えぇ、大丈夫ですわ」
「ならイイですけど」
ただの体調不良だと思ってはいないだろう。
大切な人とは別に、野梨子にも何かあったと気付いているはずだ。
自分だって余裕もないくせに、そんな所にだけ気がつく清四郎が恨めしかった。
いっそのこと放っておいてくれれば少しは気が楽だったのに。
「今まで悠理に随分と元気を貰っていたのだと痛感しますわ。悠理が元気ないと、なんだか辛くって」
我意を得たりと、頷く清四郎に泣きたくなる。
「そうなんですよねぇ、あいつのあの元気は時には迷惑なぐらいなんですけど、暗いよりは断然イイですからね」
「そうですわね」
野梨子は本当に可笑しくて笑えた。
いつの間にかポーカーフェイスで何を考えているのかわからない事が多くなっていたこの清四郎が、こと悠理の事となるとこんなにもわかりやすくなるのか、と。
野梨子が笑っている意味に気付いたのか、清四郎は拗ねた様に頬を赤らめながら顔を逸らした。
「なんですか人が心配しているのに。でもまぁ、それだけ笑えるなら大丈夫ですかね」
「えぇ、そうですわね。私は大丈夫ですわ。だから、清四郎」
「なんでしょう」
「悠理と一度、ちゃんと話をしてくださいませんこと?ふたりにそんな顔をされていては、せっかく私の調子が元に戻っても、なんだかすっきりとはしませんもの」
徐々に増えていく同じ制服に身を包んだ生徒達に会釈をしながら、清四郎の顔を見上げた。
「でも僕よりも、野梨子や可憐の方が話しやすいんじゃないですかね、あいつも」
「勿論私も、可憐も話はしますわ。でも、さっきも言いましたけど悠理って本当に頑固ですもの。清四郎のあの酷いぐらいの強引さで無理やり口を開かせない事には解決しない気もしますの」
「今なんだか微妙に酷い言い方をされた気がするんですが・・・」
「気のせいですわ」
正門が近付いてくる。
もう、大丈夫だと野梨子は確信した。
根拠はないが、ここまで彼女の話を二人でできた。
これからは、今までとは別の道を歩かねばならない。が、今より暗い道ではないと思えるだけでもいくらか気持ちは楽だった。

悠理は元気をくれる。
この言葉は嘘ではない。
早く彼女の笑顔が見たかった。

「だけど・・・・」
「え?」
少し気分がよくなり、野梨子は本来の笑顔で清四郎を見上げた。
「いえ。なんでもありません」
「まぁ、なんですの?」
「今日こそはちゃんと話が出来るかな、と思いましてね」
おどけた清四郎に、野梨子は大丈夫ですわ、と笑った。
これから、もう気にしなくてイイと悠理に話をするのだから。
しかし、清四郎の顔にそれ以降笑みが浮かぶ事はなかった。
野梨子は知らなかったのだ。
清四郎が既に、行動を起していた事を。
それに対して悠理が、避け続けている事を――――。
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