graduation
生徒会室には暖かな夕日が差し込んでいた。
しかし時計の針はもう17時を過ぎている。
程なくして、長く伸びたテーブルの影は薄れ、まだ少し寒さの残る夕暮れがやってくるだろう。
今日は卒業式があったため、部活動もなく生徒はそれぞれの感慨を胸に帰宅し、校舎は静けさだけが残っていた。

「一体、どこに置いたんですか?早く見つけてくださいよ?」
「わーってるよ。確か、みんなからプレゼントだっつってなんか貰ったときなんだよ。あん時に邪魔だからってその辺に置いて・・・」
「邪魔って・・仮にも卒業証書ですよ?お前が一番欲しかったものでしょうが」
「あんな紙切れいらんわい。あたいが欲しかったのは"卒業"の二文字だっ」

―――静けさは、一部例外があったようだ。


「全く。最後の最後までお前は・・」
先ほどから呆れた声を出し続けている清四郎は、こめかみに手をやり、頭が痛い、と言葉にせずあらわした。
その仕草を見た、卒業証書を無くした悠理はテーブルの下を覗き込むため屈めていた体、その姿勢のまま彼を睨んだ。
「んなこといったって仕方ないだろ。あん時誰もアレ持っててくれる奴いなかったんだから」

悠理が卒業証書を無くした事に気がついたのは、式が終わり剣菱邸で開かれる卒業パーティーの会場でだった。
会場の出来を皆で見た後、それぞれ19時から始まるパーティーに向けて着替える予定だったのだ。
そんな中、悠理が卒業証書を手にしていないことに清四郎が気付いた。
どうやら最後のお別れにとファンがこの生徒会室に押し寄せてきて悠理をプレゼント攻めにしたときになくしてしまったらしい。
悠理らしいといえばそれまでだが、「悠理が無くした事に気付いた」第一発見者、というだけで探すのにつき合わされてる清四郎はそれこそ「最後の最後まで」と呆れずにはいられなかった。
悠理とつるむようになってこの何年間、こんなことは日常だった。
今朝、皆とこの部屋で顔を合わせて「色々合ったな」と感慨に耽ったものだ。
だがやはり高校を卒業したからといってそれが終わるわけではなさそうだ。

「ま、何にもないよりはいいですけどね」

笑みが浮かんだ小さな呟きは、幸い悠理には聞こえてなかったらしい。
「だーーっ!ない!もう、いいよ。持って帰ったってどーせまたどっかにやっちゃうんだしさ」
彼女は叫ぶと清四郎に向き直った。
「な、もう帰ろうぜ。あたい腹ペコ」
「何言ってんですか。おじさんとおばさんにちゃんと卒業証書を見せてないでしょうが。失くすんならそれから失くせ」
「え〜っ」
不満を隠すことなく、悠理は面倒くさそうにテーブルに腰掛けた。
「別に良いじゃん。卒業できたことには変わりないんだからさー」
「悠理」
膝の横に手を置き、子供のように足をぶらぶらと揺らす。
窓から差し込んでいる夕日で、清四郎からはその姿は逆光になってよく見えず、清四郎は目を細めた。
「あたいさ、ホントにあんな紙切れなんていらないんだ」
先ほどからの声とは少し違っていた。
表情は読み取れなくても、その声から悠理が笑顔でいるのはわかった。
テーブルから勢いをつけて降り、清四郎の元へと駆け寄ってくる。
そのままの勢いで彼の腕にぶつかると、顔を見上げた。
「お前らみんなと一緒に卒業できたし、何より、あんな紙切れ一枚を今までの生活の締めくくりにするなんて納得いかないしさ」
「締めくくりって・・」
「だってさー、あれがアルバムになってるとかだったら別だぞ?でもあたいらの今までがあの紙一枚じゃ役者不足だろう!」
卒業証書とはそういう意味のものではない。だが、悠理の言わんとしていることは清四郎にもなんとなくわかった。
彼女は本当に卒業証書という紙には未練はないのだ。
それよりも「卒業した」という事実だけでいいらしい。
「わかりました。そこまで言うなら卒業証書は諦めましょう。でもおじさんとおばさんになんと言われても僕は助けませんからね」
「そんな〜。ね〜、清四郎ちゃーん」
途端に表情を変え、腕に抱きつき猫のように顔を擦り付ける。
「嫌ですよ」
清四郎も、ニヤリと笑いあっさりそれを一蹴した。
「さぁ、帰りますか。あいつらが待ってますよ」
更に突き放すつもりでそう促した。
だが、悠理は清四郎の腕に縋り付いたまま何も言わない。
「悠理?」
腕を軽く動かすが、やはり悠理は離れようとしなかった。
額を彼の腕につけたまま俯いている。
握っている手には少し力が入った。

「―――今になって寂しくなってきましたか?」
清四郎は捕まれている腕をそっと彼女の腰に回して引き寄せた。
反対の手で揺れる髪を撫でてやると、大人しく腕の中に納まった悠理は、清四郎の胸に顔をつけ肩を震わせた。
「だって。なんか、この制服も最後なんだなって思ったらさ、なんか、急に・・・」
涙声になった悠理は清四郎の制服を掴むと、大きく息を吸い込んだ。
「15年も着てきましたからね」
「・・・・うん。・・おかしいよな、さっきまでなんともなかったのにさ」
「おかしくなんてありませんよ。当たり前の感覚です」
清四郎は少しだけ、抱く腕に力をこめた。
悠理の髪をあやすようにぽんぽんと撫で、「僕も寂しく思ってますから」と少しはにかみながら言った。
「ふぇ?」
「僕だって、寂しいですよ。そんな意外そうな顔しないでください。―――でも、ま、制服は着ませんけど、幸いまだお前らとの腐れ縁は切れそうにありませんしね、これから先も楽しそうだって気持ちもいっぱいです」
顔を上げた悠理に笑ってやる。すると悠理は最初は呆けていたものの、すぐに笑顔に戻った。
「うんっ、そうだな!うん、そうだ、そうだ」

陽が落ちてきて、生徒会室も薄暗くなってきている。
だが悠理の目の淵の雫にはまだ光が反射していた。
清四郎がそれを親指でそっと拭ってやると、悠理は擽ったそうにまた彼の胸に顔を埋めた。
「な、お前この制服どーすんの?捨てんの?」
「そりゃ、いずれは」
「んじゃ捨てるときちょーだい」
「ハァ?」
悠理は身体を離すと、清四郎の制服をつまんだ。
「この感触って結構いいんだよなー。捨てるなんてもったいないしさぁ」
先ほどまでとは打って変わって気味悪く「ンフ、ンフ」と笑うと、顔を擦り付けた。
「な、いいだろ?ちょーだい」


まるでマタタビに懐く猫のようである。
と、清四郎は思った。
この制服のどこにそんな効力があるのかはわからなかったが。
それでも、決して嫌な気はしない。

「貰うからな。貰うぞ。ハイ決定ー!」
呆気に取られているのを良いことに、悠理は早々に決定してしまったようだ。
「ま、待て。悠理。僕は良いだなんて・・・っ」
「ダメー。もう決定したんだからな。だいたい、どーせ捨てるもんなんだったら別にいいじゃん」
「いや、まぁ、それもそうなんですが」
「な?問題ないじゃん」
悠理はニカっと笑うと、清四郎から離れてドアへと向かった。
「ほら、帰ろうぜ。あいつら腹空かせて待ってるぞ」
振り返った悠理に、完全に涙は消えていた。
清四郎は、その笑顔を見るとやがて諦めたように肩を落とした。
「はいはい。でも一番お腹空いてるのはお前でしょうが」
「えへへへへー」

完全に陽は落ちてしまっていた。
だが、ふたりが出て行った後もその部屋にはまだ温もりが残っていた。
もうすぐ、新しい季節がやってくる報せのような温もりが。



数年後、ふたりはこのときを思い出し、そして思い当たる。

嫌な気がしなかったのは、悠理だったから―――。
あの制服が欲しかったのは、清四郎だったから―――。
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