雨が降っていた。

知らなかったわけではない。つまらない授業中に降り出した雨が作る窓ガラスの模様を暇潰しに変わりに眺めていたのだから。
放課後の部室でも、皆とくだらない会話をしながら窓の外を眺めていたのだから。

しかし、傘がないことに気付いたのはたった今だった。

そういえば今朝、車の中で名輪から傘を持っているかどうか確認された気がする。
どんよりとした黒に近い灰色の雲を見て、うんだかあぁだか応えた気もした。
だとすれば迎えは来ないだろう。
この玄関ホールから名輪の待つロータリーまで走ったとしてどれほど濡れるだろうか。
悠理はぼんやりとそんなことを思った。

「びしょ濡れになってまた風邪を引くつもりですか?」
後ろからかけられた声に、悠理の体が一気に強張った。
「そうですわよ悠理。せっかく良くなったのでしょう?」

悠理は、ゆっくりと後ろを振り返った。


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―――――静かな部屋に、外の雨音と清四郎の声が響いた。
「お前じゃなければ駄目なんだ」
耳元でそう囁かれたのを最後に、悠理の意識は暫くの間そこで途切れた。

次に目を覚ましたとき、悠理は自室のベッドの上に寝かされ、傍らにはいつかのように清四郎が優しい眼で微笑んでいた。
安堵にも見えるその表情は、暫し悠理から頭の中の喧騒を打ち消した。
伸びてきた大きな手が額に重なり、頬に滑る。
少し硬い親指で瞼を撫ぜられ、悠理は眼を閉じた。
もう一度眼を開けると、清四郎が泣き出しそうな子供のような顔をしていた。
「お前を困らせるつもりはなかった。ただ、お前の姿を見たらもう自分を抑えていることが出来なくなったんだ」
「清四郎・・」
それは悠理も同じだった。
抱きしめられ口付けをかわし、野梨子の顔が浮かんだがそれでも抑えることが出来なかった。
そのことで、きっと自分の中で色んなものがパンクしてしまったのだろう。
「突然お前が気を失って・・・怖くなった。そんなにもお前を苦しめたのかと」

苦しそうな清四郎の表情が、悠理には辛かった。
あたいもお前が好きだ。あたいもお前の傍にいたい、と口に出来れば、この男はどれだけ喜んでくれるのだろう。
自分はどれだけ楽になれるのだろう。
だが今こうして、男の手に自分の手を重ね、あやす様に撫でている行為すら、罪でしかない。
大事な友を裏切る罪。
そして罰なのだ。

「な、清四郎。あたい、風邪でさ明日は休む。だってきっとあたい凄い目してるだろ。今だってお前の顔とかもこの距離で見難いもん」
散々泣いた所為なのか、自分でも驚くほど普通に声が出せた。
しかもきちんと微笑んでいるはずだ。
「お前、今日ここに来ること誰かに言った?言ってないよな。そしたらさ、今日の事は秘密。ホントは忘れて欲しいけど」
それまで悠理の言葉を呆然として聞いていた清四郎の顔付が一気に変わった。
「忘れて・・・?」
信じられないものを聞いたという様に身を乗り出す。
それでも悠理は毅然としていた。
「あぁ。言ったろ。あたいとお前はダチなんだ。どうしたってこれは譲れない」
シーツの中で両手を硬く握り合わせる。
ここで負けるわけにはいかなかった。
「だからもう今日は帰ってくれないか。明後日にはちゃんと学校にも行く。そんで今まで通りの生活に戻る」

それは悠理の決意でもあった。
これまでも同じようなことを幾度も思った。
しかしその度にうまく行かなかった。が、今度は違う。
今度こそ、違わなければならないのだ。
唇を真一文に引き結び、言葉を発せられないでいる清四郎を睨むように見上げた。


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「だって、しゃーないだろ。傘忘れちゃったんだから。でも大丈夫だよ、車まですぐそこだしさ」
雨脚は強くなる一方でもう一度外に視線を向けると、このほんの一瞬でも視界が悪くなっていた。
「どうして明らかに朝から天気が悪くなるとわかってる日に傘を忘れてこれるんですかねぇ」
やれやれと言った風に清四郎が肩を竦めていた。
「煩いな。イイよわかったよ。んじゃ魅録が来るの待ってるよ。あいつ確かロッカーに置き傘してたはずだからそれでも借りるわ」
二人の背後を覗き込むように、親友が来るのを待つ姿勢をみせた。
「あら、魅録なら暫く降りてこないと思いますわよ。さっき教頭に呼ばれてましたもの」
一緒に部室を出てきたはずの魅録が、途中でいなくなっていたのには気付いていたが、すぐに追いつくと思っていた。
今日は美童と可憐はそれぞれ別の用事で既に帰っている。
絶句した悠理に、清四郎は軽く息を吐いた。
「車まで送っていきますよ」
「そうですわ悠理。いくら悠理でもまだ風邪も治りきっていないのにこの雨の中を飛び出すなんて無茶ですわよ」
「大丈夫だって、ホントに」
―――本当は風邪などではないのだから。
悠理はまた嘘を重ねたことが苦しくて仕方なかった。
一刻も早く、この場を逃れたかった。
「駄目ですよ。人の厚意は素直に受けなさい。それにお前が風邪を引くと、なぜか野梨子まで調子が悪いらしくてね」
「野梨子が?」
「嫌ですわ、清四郎。そのことはただの偶然だと言ったじゃありませんの」
「大丈夫なのか、野梨子」
「えぇ、元々たいしたことありませんでしたのよ。きっとこんな憂鬱な天気が続いている所為ですわ」
三人は空に目を向けた。
昼間だと言うのに暗い空が、いつまでも続きそうなほど重く見えた。

少しの間会話が途切れた後、清四郎が傘を開いた。
「ま、そういう訳ですから車まで行きましょうか」


車までの約束だったはずが、走り出した車内には清四郎と野梨子もいた。
清四郎がついでだから家まで送れ、と言ったのだ。
先に車に乗っていた悠理は、清四郎のその言葉に唖然とした。
彼を避けたい理由は当人が一番知っているはずであるし、理解してくれていると思っていたのに。
しかし結局悠理は二人の為に席を空けた。

空虚な会話が車内を滑る。
時折笑い声も漏れたが、誰も楽しんでなどいないのは明らかだった。
やっと二人の家の前に着いたときには、ほんの数分の距離であったはずなのに、悠理は酷く疲れている自分に気付いた。
「それじゃぁ、あまり無理をしないでね、悠理」
野梨子が心配そうな顔をして、名輪が開けたドアから降りていく。
その表情の中に、彼女の苦しみも見えた気がした。
罪悪感を感じているのは恐らく自分だけではない。
野梨子のほうこそ、もしかしたら自分よりも更に強く罪の意識で苦しんでいるのかもしれない。
野梨子はきっと悠理の気持ちを悠理よりも先に知っていたはずなのだ。だからこそ、清四郎と出かけないで、と伝えてきたあの日、涙したのだろう。
抱きしめてあげたくなるような野梨子の表情に、悠理は泣きだしそうになった。
こんなにも彼女を苦しめているのか、と。

続いて清四郎が車内から出た。
「送ってくれてありがとう。助かりましたよ」
「うん」
短い会話だった。
それでいいと悠理は思った。
すぐに彼から眼をそらし、前方を見る。
視線を感じてはいたが、程なくしてドアは閉まった。
窓ガラスに映っていた二人の影が離れる。
悠理はそこで漸く大きく息を吐き出した。

静かに車が動き出し、シートに深く身体を沈める。
息こそ荒くはないが、まるで全力疾走で何キロも走ったかのような疲労感があった。
窓の外に視線をやると、家々の景色がゆっくりと流れていく。
住宅街のため、あまりスピードが出せないのだろう。
「雨、止まないね」
「そうでございますね」
これだけの会話が、先ほどまでの友人達のそれよりも心地良いと感じたことに、悠理は可笑しくなった。
しかし、今はまだ無理かもしれないが、野梨子のためにも自分のためにも、また今までのような楽しい生活を取り戻さねばならない。
「お嬢様」
「んー?」
「清四郎様が」
言うなり名輪が車のスピードを落としだした。
元々たいしたスピードではなかった為、悠理が「清四郎が何」と聞き返す間に停車した。
「こちらに向かってこられております」
ハッとして後ろを振り返る。
確かに家の前に野梨子を残し、清四郎が駆けて来ていた。
「出して!」
悠理は慌てて名輪に叫んだ。
「ですが」
仕える令嬢が突飛なことを言い出すのは日常茶飯事だったが、まさか友人が追ってきているのに出せと言われるとは思っていなかった名輪は、大概のことに対処できる判断力を持ち合わせていたにも拘らず、さすがにすぐに命令に従うことが出来なかった。
「いいから、出して!」
しかしそれは叶わなかった。
清四郎の手が、ドアにもう伸びていたのだ。
窓ガラスをコンコンと軽く叩いている。
悠理は仕方なく、ガラスを開ける操作をした。
ここで無理やり逃げ出しては、まだ背後にいるであろう野梨子が怪しむと思ったのだ。
「なんだよ」
「ちょっと忘れ物です。開けてください」
前半は悠理に、後半は運転席の名輪ににこやかな表情で告げた。
ロックが外れ、清四郎が自身でドアを開ける。
悠理は少しでも離れるようにと、奥へと移動した。
「忘れ物って?」
それには答えず清四郎は名輪に「すいませんが」と言って、運転席と後部座席の仕切りを上げるように伝えた。
音もなく車内が二つに仕切られる。
清四郎と悠理は、ふたりきりになった。

清四郎が開け放したままにしているドアから、雨の音が聞こえる。
それに気付いたのは清四郎の顔が離れてからだった。
唇に、熱い感触が残っている。
「友達のままでもいい。傍にいさせてくれ。僕はあの日、そう言いました」

決意の篭った眼で睨みつけた悠理にも当然の如く怯むことなどなく、清四郎は「嫌だ」と言った。
しかし悠理の「なら、あたいはもうお前の傍にはいられない」の言葉と眼に、清四郎は折れたはずだった。

「な・・・んで・・・?」
唇を指先で押さえる悠理の眼はあの時とは違って、驚愕に見開かれていた。
「今はふたりきりでしょう?」
事も無げに言うと、小さく微笑んだ。
「野梨子には忘れ物をしたと言ってきた。名輪は今の出来事を何も知らない。―――誰も知らないんだ、僕たちがキスしたことは」
清四郎は名残惜しげに、いまだ呆然とする悠理の頬に触れた。
「周りに誰かいるときは今まで通り友達で良い。だけど、ふたりきりのときは、僕を見てくれ」

ドアが閉まる音が聞こえ、車が動き出した。
急に悠理は寒く感じた。
先ほどまでが暖かかったのだと、ふいに思った。


住宅街を抜け、徐々にスピードが増していく。
そのスピードに比例するかのように、雨はもう景色が判らないほど強くなっていた。
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