清四郎の唇が悠理から離れると、少し掠れた声を零した。
「好きだ。ずっとお前が好きだった」
熱い息が唇に触れる。
「今日は話をしたかっただけだったのに、顔を見たら我慢できなくなった」


今までに見たこともないほどの、切ない表情の清四郎が目の前にいた。
悠理はもうどうしていいのかわからなかった。
胸が苦しくて仕方ない。涙が次から次へと溢れては流れていく。

もっと唇に触れたい。
もっと抱きしめて欲しい。

「清四郎・・・」

だが、拒否しなければならないのだ。
今ここで感情の赴くままに清四郎を求めては、後で必ず後悔する。
野梨子を傷つけ、それによって清四郎が彼女の元へ行き、そして自分の前から去ってしまう。
そんな思いはしたくない。
今ならば、友人としてまだ傍にいることが出来る。
少なくとも、まだ今ならば、自分たちさえこの瞬間の出来事を黙っていれば野梨子を傷つけることはない。
そして、清四郎とも最悪の別れ方をしなくても済むはずなのだ。

悠理は離れがたい男の温かい胸をその小さな手で押し返した。
顔を見ることが出来ず、俯いたまま。
「悠理?」

「あたいとお前は、ダチだろ・・・?」

嗚咽が漏れそうになりながらも、なんとかそれだけを吐き出した。
しかしやはり顔を見ることが出来ない。顔を上げることが出来ないでいた。
清四郎の制服を掴む手に力が入る。
皺一つない制服に、大きな波が寄った。
そして清四郎の眉間にも同じように、深い皺が刻まれた。
「悠理、僕はお前が好きだ。友達なんかじゃなく、お前を・・・」
「違うっ、違うぞ、清四郎。駄目だよ、勘違いだよ、そんなこと」
「違わない!」
悠理はもう涙も嗚咽も抑えることが出来なかった。
こんなに辛い思いは初めてだった。
会いたくて話がしたくて、触れたくて傍にいたくてどうしようもなかったのに、その全てが叶ったというのに、それら全部を拒否しなければいけないのだ。
「帰ってよ、清四郎。もう会わない」
「誰なんだ。悠理、教えてくれ。誰がお前をこんな風にした」
離れようとしても清四郎が悠理の細い手首を掴んだまま決して離そうとはしなかった。
「お前が誰かの為に僕を避けているのはわかっていた。だからずっと待つつもりだった。でも、―――――駄目なんだ。もう駄目なんですよ」
搾り出すような清四郎の声に、悠理は涙の堪った瞳でその顔を見上げた。
口から苦しさと共に気持ちの全てが飛び出してしまいそうだった。
もう今の状況が耐えられないのは悠理も同じだった。

清四郎の唇が悠理の震えるその唇を覆う。
互いの苦しさも想い合う気持ちも全てがそこで混ざり合う。
悠理はもう拒むことが出来なかった。
自らも清四郎の背中に腕を回し、今までの分を取り返すように抱きしめた。


幾度も繰り返される慣れない口づけに悠理の表情が険しくなり鼻から漏れた苦しげな声に、清四郎は名残惜しげに唇を完全に開放した。
「大丈夫、ですか?」
いつもの自分を取り戻しつつあるのか、清四郎がはにかんだような表情で悠理を窺った。


悠理もまた自分を取り戻しつつあった。
清四郎の表情が愛しくて仕方ない。
だが、同時に野梨子のことも頭に浮かんでいた。
罪悪感がじわじわと心を締め付ける。
「大丈夫か」と問われても応えようがなかった。
うんと頷くこともううんと首を振ることも出来ない。
それでも、この腕は清四郎の背中を離せなかった。清四郎の腕が離れていくことが怖かった。

「悠理?」

久しぶりに見た清四郎の穏やかな顔に悠理はそっと指先で触れた。
まだ何も考えずにふたりで遊びに行っていた頃、何が原因か今では思い出せないが喧嘩をしたことがあった。
清四郎の頬を両手で摘んで引っ張り「清四郎の馬鹿」と怒鳴った気がする。
きっと清四郎が何か言ったのが気に入らなかったのだろう。
その時、あまりに自分の頬とは違う硬さに驚いた。
今もその感触は変わらない。自分のとは違う精悍な顔。

もう二度と触れることはない――――。


「清四郎」
「ん?」
悠理の指先が頬から滑り落ちる。
俯いてしまったその表情が見たくて、清四郎はもう一度悠理の頬に両手を沿え上を向かせようとした。
それを悠理の手が阻む。
しかし清四郎は手が重なるだけでも、今は気持ちが満たされていくのを感じていた。
顔を見られたくないのだ、照れているのだ、と思い、ならば抱きしめようと、頬に置いてあった手を華奢な体に廻した。

引き寄せるように抱きしめ、その髪に顔を埋めた。
ただじゃれあうことが楽しかった、これまでのように。



「―――今からまた、ダチに戻ろ?」
悠理の手が先ほどのように清四郎の胸を押し返した。

「なにを・・・」
顔を上げると、清四郎の目がまるで迷子になった子供のように不安げに揺れている。
悠理はその頭ごと胸に抱きしめたくなった。
「嘘だよ」と言いたくなった。
それでも。
「あたいとお前は、"恋人"になっちゃいけないんだ。お前にはもっとふさわしい人がいるだろ?だって、考えてもみろよ。あたいなんかお前の傍にいたってなんにもしてやれない。誰も納得しないよ」
「お前のほかに、誰がいるというんだ。誰が何を納得しないって言うんだ!・・・傍にいるだけで良いんだ」
掴まれた腕が痛い。
悠理は顔を顰めて清四郎を見た。
だが、それぐらいでは離してもらえそうもなかった。
ぐっと拳を握り締める。
悠理だって本当はその手を離して欲しく等ないのだ。
「お願いだよ、清四郎。わかってよ」
「何を判れと?悠理、誰に何を言われた?誰が邪魔をしているんだ?」
「誰も何も言ってない。あたいが、お前とは上手くやっていけないって思ってる・・だけ」

どうしてそんな言葉が信じられようか。
清四郎は悠理を苦しめている何者かが憎くて仕方なかった。
何も出来ない自分が悔しくて仕方なかった。
十中八九、その張本人は倶楽部の誰かなのだろう。
これまでの学校での様子を見ていてもそれは確かだ。
自分とて倶楽部の誰かが絡めば普段のような判断が出来るかどうか定かではない。
だが、だからといって素直に「はいそうですか」と納得できる程、悠理への想いは簡単なものではないのだ。
この想いが通じ合っているというのも自惚れではないはずだ。
だからこそ余計に諦めることなど出来ない。

「悠理、お前が僕に嘘をつけるとでも?」
「嘘なんかじゃっ」
「ならなんだって言うんですか!」
清四郎は強引に悠理を引き寄せた。
尚も逃げようとするその身体を、渾身の力をこめて抱きしめる。
「なら、なんだって言うんだ・・・」


静かに電子音がふたりの間に鳴り響いた。

今のふたりとは正反対の何の感情もないその音は、清四郎のポケットから聞こえていた。
鳴り続けている所を見ると、メールの着信音ではなく、電話なのだろう。

「悠理」
清四郎はそんな音などまるで聞こえていないかのように、愛しい名前を呼んだ。
もうこれ以上誰にも邪魔などされたくはなかった。
「携帯、鳴ってる。出なきゃ」
悠理が微笑う。泣きそうな顔で。
首を振る清四郎に、もう一度微笑んだ。
「駄目だよ、清四郎。出なきゃ」
「嫌だ」
「清四郎・・・」
悠理の瞳はまるで懇願だった。
そんなにもこの場を逃げたいのかと、清四郎の悔しさは増すばかりだった。
「なら約束してください。この電話に出ればきちんと話をすると。だれがお前をこんな風にしたのかを」

悠理の表情を見て、清四郎は鳴り続ける携帯の電源を切った。
気持ちを落ち着けるように、大きく呼吸する。
そして、悠理の頬を両手で包み込んだ。
―――とにかく、触れていたかった。
「悠理、僕が嫌いですか?」
大きく見開かれた目からまた雫が零れ落ちる。
「僕が怖いか?」
俯こうとする顔をそっと上を向かせた。
「せめて今だけは僕をちゃんと見てください。今は、僕たちふたりだけだ」

罪悪感がなくなったわけではない。
野梨子を忘れたわけではない。
それでも、清四郎の目を見ていると悠理は、もう抗うことなど出来なかった。
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