からりとした青空だった。ひと時の梅雨の中休み。
爽やかな風に悠理は心からの解放感を感じて、うん、と思いっきり伸びをした。
「悠理、見えてる」
美童がにやけながら言う。
「へ?なにが?」
悠理はきょとんと訊く。
「腕。痕が残ってる」
言われて短い夏服の袖から覗いた己の二の腕を見ると、そこには小さな赤い花びら。
「うわわわわわっ!」
と悠理は慌てて逆の手で隠す。
3日前のものは随分と薄くなっていた。そこに咲いていたのは、昨夜新たにつけられた印。
放課後の生徒会室には、照れと気まずさのないまぜになった空気が漂った。

久しぶりに6人が顔を揃えた月曜日の生徒会室。
悠理は真っ赤な顔のまま、ちらりと幼馴染二人のほうを見る。
清四郎は何も聞こえてないかのように小説本を読み続けているが、ほんの少し耳たぶが赤くなっている。
野梨子は、というと苦笑しながら悠理のほうを見つめ返してくれた。その表情は柔らかい。



曇天の日曜日の昼時。清四郎は白鹿家の茶室に招かれていた。
「一服しませんか?」
そう言って誘ってきた野梨子から話があるのはなんとなく察せられた。

悠理からは、
「全部片がついたよ」
とメールが来ていたが、土曜の朝に家に送り届けて以来まだその顔を見ていなかった。声も聞いていなかった。
どういう方向で話がついたのか、誰と話をつけたのか、それがわからずほんの少し焦っていた。
だから茶を一服というのは平常心を取り戻すためにも渡りに船だった。

和装の野梨子がたててくれた茶を一口ふくんだところで、
「私、ブラコンから卒業しようと思いますの」
と言われて、清四郎はまじまじと彼女を見つめた。
「こんなことを言うのはとても悔しいのですけれど、悠理を苦しめてしまったペナルティですわ」
そうじゃなきゃ言ってなどやりません。と、野梨子はつん、と顎をそびやかした。

この小憎らしい男を兄のように慕っていた。頼りすぎていた。それが悔しい。
その想いを恋だと勘違いしていた。それが悔しい。
自分でも気づいていなかったその勘違いを、恋愛過剰男に気づかれていた。それが悔しい。
なにより悔しいのは、それをこの男に告げてやること。

でも、自分のせいで悠理を泣かせてしまった。そのペナルティは甘んじて受けよう。

清四郎はさすがに黙り込んで頭を整理するのに数瞬を要したが、ようやく口を開いた。
「そういうことでしたか」
苦虫を噛み潰したような野梨子を他所に、くっくっと肩を震わせて笑い出す。
「まあそこのところはおあいこ、でしょうね」
野梨子が他の男に恋をしたときには、自分でも笑えるほどに保護者の気持ちになってしまった。
相手の男に嫉妬すらした。
これから先も野梨子が他の男に恋をしたら、複雑な想いに駆られるのだろう。
自分の気持ちは恋ではないと、自覚しているけれど。

「私、悠理のことも大好きですのよ」
「知ってますよ」
間髪いれずに清四郎が答えると、野梨子はきりりと清四郎を睨めつけた。
「私が言えた義理ではないでしょうけれど、悠理をこれ以上泣かせたら承知いたしませんわよ」
まっすぐに彼の瞳を射抜く彼女の視線。
清四郎はぐっと腹に力を籠めると、心から誓った。
「肝に銘じます」



清四郎は白鹿家を辞したその足で剣菱邸へと向かった。
そして部屋にいた悠理を問答無用で抱きしめ、何度も繰り返した。
「悠理、愛してる、愛してる」
悠理は感極まってただそれしか口にできない男を抱きしめ返すと、初めて彼に己の気持ちを言葉にして告げた。

「あたいも、おまえが好きだよ」



「しかし予想通りだね、清四郎の手の早さは」
美童が横目で清四郎を見ながら言う。
「そうねえ。真面目そうな奴ほど箍が外れると怖いってホントよね」
可憐もうんうん、と頷いている。
「あんまりからかうなよ。清四郎は無事でも悠理が悶死する」
魅録が苦笑しながらたしなめる。
野梨子はそっと座っていた椅子から立ち上がると、悠理のそばに寄ってその頭をよしよしと宥めるように撫でてやった。
「野梨子お」
悠理は涙目になるほど紅潮しきった顔を野梨子の胸に押し付けた。

「悠理、一つ忘れてやしないか?」
ふいに清四郎が小説本をぱたんと閉じて、口を開いた。
「な、何をだよ」
なにか都合のよくないことを言われる予感がした悠理の腰は、やや引け気味だ。
「試験勉強です」
あまりに場違いな単語が飛び出し、一同が呆気にとられた。
確かに先週、そんな話もしていたが。
「“あそこ”のロッカーに入ってる参考書を使うので取ってきて下さい」
「な、なんであたいが」
「一緒に入れっぱなしのお菓子、忘れてませんか?」
言われて悠理はあ、と思い出した。
屋上へと続く階段に置いたロッカー。清四郎とギクシャクして以来行っていなかったが、楽しみに詰め込んでいたお菓子があったのだった。
「すぐとってくる!」
目をキラキラさせて飛び出していく悠理に、
「参考書、忘れるんじゃないですよ」
と清四郎は声をかけた。



ポケットの中から鍵を取り出す。
ポケットにはもうあの指輪は入っていない。持ち歩かなくてももう大丈夫だから。

以前と同じわくわくとした気持ちで悠理は鍵を回す。
思えば清四郎にこのロッカーのことを明かしたのも、二人で秘密を共有するのが嬉しかったのだろう。

かちゃん、と鍵が開く音がして、悠理は扉を引いた。

そこには見慣れない紙袋がちょこんと座していた。
「ほえ?」
見慣れないが見慣れている。ジュエリー・アキの紙袋だ。
「なんだあ?」
と袋の中を見てみると、小さなジュエリーケースが入っていた。
上には『悠理へ』と書かれたカード。

震える手でカードを開くと、一言シンプルに『愛してる』の文字。

ジュエリーケースには、小さなダイヤモンドが光っている本物のファッションリング。
同梱されていた保証書の日付は3日前。金曜日の日付だ。
「あの夜、ここにこれを用意していて遅くなったんです」
いつの間に彼女を追ってきていたのか、背後から清四郎の声がした。
「ばっかでー。あたいがやっぱりやだって言ってたらどうしてたんだよ」
耳まで赤くしながらも、悠理は振り返らない。あの夜のように。
「そんなセリフ、言わせません」
と、清四郎は彼女の手から箱を取ると、指輪をケースから出し彼女の指にはめた。

もう、言葉は要らなかった。
二人はそっと唇を重ねた。



「空が、綺麗ですわね」
野梨子は窓から空を見上げて言った。口端をうっすら上げて。
悠理が「雨上がりの空が好きだ」と言っていたのを彼女も聞いたことがあった。
澄み渡った青に吸い込まれそうな錯覚を受ける。
「そうだな」
魅録は一言、それだけ返した。
可憐も美童も、優しく微笑みながら野梨子を見つめ、悠理の笑顔を思い出していた。

雨が上がった快晴の空のような、その笑顔を。

まだ梅雨の中休み。これからも雨は降るのだろう。
だけれど止まない雨はない。
いつまでも晴れない空はない。

雨のち、晴れ。
雨上がりの空はすがすがしく、晴れ渡っていた。
(2007.1.31)(2007.2.8完成稿)
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