土曜日、朝。銀座。
平日よりはいくぶん少ないのだろうが、すでに早朝とは言えない今の時刻、車道にはひっきりなしに車が行きかっていた。
悠理はほんの少し火照った身体を冷ますため、そのビルに踏み込む前に一呼吸置いた。
有り余る体力がとりえの彼女であるので、最寄の駅からここまで足早に歩いてきたくらいでこんなに身体が火照るはずはなかった。まして今はまだ昨夜来の雨が小降りになったとはいえ降り続いていて気温も低めである。
理由はわかっている。
この胸に鮮やかに散っているであろう、赤い花びらのせいだった。



何があっても離さない。離れない。
シャワーを浴びて戻ってきた清四郎にきつく吸われた。
ちりちりとした痛みとともに赤い花びらが点々と散っていく。

朝まで離してくれなかったぬくもりに、悠理は勇気を与えられた。
己の不実を詫び、親友に罵られる勇気を。
親友を傷つけてでも、真実を明かす勇気を。



「おはよう。来たよ」
インターホンを押して語りかける。
朝になり清四郎に送られて自宅に戻ると、悠理はまず野梨子に電話した。
可憐の家にいると言うので、服を着替えると電車に乗った。
「おはよ、この不良娘」
ドアを開けて迎える可憐が柔らかく笑んでいたので、悠理は少しほっとした。



ベッドの端に腰掛けたまま、悠理はケータイを握り締めているようだった。
清四郎はまずそれに気づいた。そのためにシャワーを浴びるといってここを離れてやったのだから。
「“また”電話か?」
悠理はぴくりと肩を揺らしてから、こくんと頷いた。
「あいつら、いま集まって飲んでるんだって」
清四郎はそのセリフに眉を片方上げると、己のケータイをサイドテーブルから手に取った。
「ああ、運転中モードのままだったのか。こっちにも電話が入ってます」
「ん、みたいだね」
悠理は清四郎に背を向けたままで短く答える。
その背中は常になく小さく見える。
「どうします?合流したいのか?」
からかうように訊くと、悠理はようやくがばりと彼のほうを振り返った。
「できるかよ!今更!」

野梨子に告げた残酷な事実。
今は悠理自身、心の整理がついていない。
野梨子だとてそうだろう。

野梨子に罵られに行かなければならないのはわかっているけれど。

「二人一緒にいると言ったんですか?」
“電話の相手”に、と清四郎は身振りで示す。
途端に悠理は再び彼から目をそらし、うっすら頬を染める。
「言った」
すると清四郎はふう、とまた一つ息をついた。
「つまり連中にも早々にばれてしまいましたか」
その言葉に、悠理は目を瞠った。
恐る恐る見上げた先にいる清四郎は苦笑して悠理を見ている。やはり頬がほんのりと染まっている。
彼女の頬は一気に赤く染まりあがった。
「え、うそ、あ、でもそういや、ばれた・・・かな・・・」
野梨子はショックを受けているだろう。それを皆は問いただすに違いない。
もしかしたら怒った野梨子がまくしたてているかもしれない。
可憐なんかもきっと一緒になって怒ってるだろう。
美童や魅録は呆れてしまっただろう。

悠理はその事実に思い至ってなかった自分に気づくと、ばふん、とベッドに突っ伏した。
臨界点を超えたらしい。
これまで彼女の心の中を占めていた罪悪感だけじゃなくて。
恥ずかしさやら、照れくささやら、自分の浅慮に対する怒りやら、清四郎に申し訳ないと思う焦りやら。

清四郎はそこまで思い至ってなかった様子の彼女をもちろん責めるでもなく、ゆっくり頭を撫でてやった。



「可憐、怒ってないんだ?」
「こうなるまで言ってくれなかった水臭さには怒ってるわよ」
可憐の部屋まで通されながら呟くと、可憐にあっさりと返された。
「うん、ごめん」
「まったくだわ」

可憐が自分の部屋のドアを開けてうながす。
そこに野梨子はいた。

可憐はそのままリビングへ行き、悠理は野梨子と二人きりで残される。
硬い表情で悠理から目を逸らしている彼女は、床に座り込んだ膝の上で両手を組み合わせていた。
その手は合わされた部位が白くなるほどに力が籠っているようだ。
そう、すべてが白、だった。
野梨子が着ているワンピースも、その磁気のように滑らかな肌も。
昨日見た、幸福な女の子の人形のような、白いワンピース。

けれど、野梨子の頬は決して蒼ざめてなどなく、怒りのためか、それとも他のなにがしかの感情のためか、ほんのりと紅潮していた。
その感情はほとんど窺うことができなかったけれど。

「お座りになったら?」
野梨子が口だけを動かしたので、悠理はその言葉に従って彼女の斜め前に座った。
互いに床に座り込んでみても、野梨子はほっそりと小柄で、悠理よりも随分と小さい。
「ごめん、な」
悠理がぽつりと発した第一声は、ずいぶんと掠れていた。
野梨子はそれに対して一言も返してこなかった。ほんの少し身じろぎすることすら、しなかった。
悠理はごくりと唾を飲み込むと、続けた。

清四郎のことを悠理も好きであること。
野梨子に「もう清四郎と出かけないで」と言われるまで、その感情に気づいていなかったこと。
野梨子を傷つけたくなくて、気づいても言うことができなかったこと。
でも、諦められなかったこと。
そのことでかえって野梨子を傷つけてしまったこと。

そして、清四郎から愛されてしまったこと。

物事を頭の中で整理して順序良く語るというのが苦手な悠理のこと、随分と紆余曲折しながらだったがそこまで語り、付け加えた。
「順序が違ったことは悪いと思ってる。でも・・・」
悠理はそこで一旦言葉を切る。
そして胸元の赤い花びらの辺りを服の上からなぞり、きゅ、と唇を噛む。
「清四郎とこうなったことは、謝らない」

野梨子に語る間、悠理は一度も彼女から目を逸らさなかった。
そのわずかな一挙一動も見逃すつもりはなかった。

野梨子は、ゆっくりと悠理のほうへ顔を向けた。
その小さな左手が悠理の頬へと伸ばされ、右手が振り上げられた。
平手くらい当然の報い。
悠理は覚悟して目を閉じ、歯を食いしばった。

ぱちり。

雷のように鋭く振り下ろされるはずの手はしかし、ほんの少し強い勢いでもって悠理の頬に添えられただけだった。
見開いた悠理の視界一杯に、野梨子の整った顔が飛び込んできた。
「もっと早くに、言って欲しかったですわ。あなたの口から」
もちろん、早くから悠理の気持ちに気づいていたからこそ、あんな風に釘を刺したのだけれど。
悠理の気持ちも、清四郎の気持ちも、傍から見ていればとても止められるものではないことは明白だった。
「清四郎のことが好き。あなたに取られたくない」
野梨子の口からはっきり言われて、悠理はざくりと胸を抉られるような気がする。
「でも、悠理のことも大好き」
野梨子は花が綻ぶように笑むと、悠理の頬から手を離して俯いた。
「私の気持ちは、恋ではないのですって」
「へ?」
悠理は驚いて思わず間抜けな声を上げてしまった。

野梨子は頬を一層赤らめ、口を開く。
「私、清四郎と手を繋いだり抱きしめられたりすることも、想像できませんの」
彼女の幼く淡い初恋の思い出。
あの時は自ら想像しなかったにしろ、抱きしめられてときめいた。
抱きしめられたいと思った。
抱きしめられ、喜びに心が震えた。
甘い甘い、痛みを感じた。
「自分ではそのつもりはありませんでしたのに、言われてみたら、そうだったのですわ」
「“そう”って?」
悠理はわけがわからず首をかしげる。
あんなにも苦しそうだった野梨子の想いが、恋じゃない?
「『おにいちゃんをとらないで』、そう言うのが一番近いのかしら?」
言いながら、野梨子は眉根を寄せた。心底、悔しそうに。
悠理がぽかん、と口を開けたところに、野梨子ががばりと顔を上げる。
「私のことは清四郎には?」
「言うわけないだろ!」
言えるわけないだろうが、と悠理は力いっぱい答える。
「当然でしたわね。悠理のそういうところ、大好き」
もう一度そう言って、野梨子は笑む。
「清四郎には私から謝っておきますわ」
「えっと、その、それって、結局どういう・・・?」
悠理は話の展開についていけないのか、目を白黒させていた。
その様子が可愛い、と思うと野梨子は悠理の首に抱きついた。
「『おにいちゃんを幸せにしてあげてくださいな』、そういうことです」

悠理は野梨子の言っていることをしばらく頭の中で反芻して、考えた。
そして整理がついた頃、ようやく彼女を抱きしめ返した。
「うん、わかった。約束する」
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