数々の命を掛けた修羅場を潜り抜けてきた有閑倶楽部の面々。
そんな彼等でも、「緊張の一瞬」というものに慣れることはない。
今もまた、清四郎の一言で生徒会室の空気が止まったかに感じた。

昼休みだった。
いつも通りに他愛のない話題で盛り上がりながら昼食を済ませた各自は、各々メールや趣味に残りの休憩時間を費やしていた。
テーブルでは美童と可憐は雑誌を眺めては何やら話しこんでいる。部屋の隅で悠理も魅録と共にロックの話をし、野梨子は食後のお茶を淹れに、備え付けの流しでその用意をしていた。

「悠理。ちょっと話がある」
清四郎はそれほど大きな声で言った訳ではない。
無論、小声というわけでもないが、皆が一斉に動きを止めて気を集中させるほどの声量では決してなかった。
普段なら、誰も気にも止めないような、ありふれた言葉。
だが、このたった一言が悠理の体を強張らせた。

「な、何?」
顔を向けようともしない悠理に、清四郎は思わず苦笑する。
周りにチラリと視線を送ると、皆どこも変わった様子もなく声をかける前となんら変わりなく見えた。
そんな筈ない、と知っていたが。
清四郎は、なにも気付かない振りをして続けた。
「おや、さすが勘が鋭いですな。試験勉強の話だとわかりましたか」
いつもの様に、からかいを口調に乗せて目を細める。
呆気に取られた風な魅録と、振り返った悠理に、更に口端を上げて続けた。
「来週の試験のことなんですけどね。試験一週間前だと言うのに今朝は遅刻して来たそうじゃないですか」
朝生徒会室に姿を見せなかった悠理は、二限目の終わりの休憩時間にやってきたらしかった。
「え〜っと、それは・・・」
「随分と余裕ですな。その辺の事も含めて・・・・さぁ、こちらにどうぞ?」
清四郎はあくまで笑みを絶やさず、悠理を応接セットへと促した。


清四郎も、限界だった。
あの約束の日から、悠理の態度はまるで変わってしまった。
突然元気がなくなったかと思えば、急に避けられる様になり、今では挨拶すらろくに返さなくなっていた。
なにか怒らせたのなら謝ればいい、だが、そういう事とも違うらしい。
口数は減り、ぼんやりしている事が増えている。
食欲だって、人並みからすればやはり多いが、それでも普段の悠理の量には決して及ばない。
悠理に何が起こったのか、それが知りたかった。
認めたくはないが、総合的に判断しても自分が原因らしい事も清四郎は気付いていた。
誰よりも彼女の笑顔を望んでいたつもりだったのに、何も出来ないどころか苦しめているらしい。
だから、自分が関わらなければ、それで悠理の笑顔も戻るかと思いこれまで我慢していた。
しかし、もうこれ以上なにもしないまま手をこまねいている事も出来なかった。


清四郎は慎重に考えを巡らせた。
恐らく、今の悠理の意思は悠理だけのものではないのだ。
誰かを気にしている。
それが誰であるかわからないが、恐らくこの中の誰かだろうと清四郎は考えていた。
そうでなければ、彼女がここまで自分と触れ合う事を避けるはずがない、と。

「あたい・・試験勉強、ヤだな・・・・」
向かいに座った悠理は、えへへへと力なく笑うとやはり眼を逸らした。
俯き加減で膝の上で落ち着きなく両手を絡ませている。
赤味の差した頬は、かなりの熱を孕んでいそうだった。
清四郎はそんな悠理の様子を黙って見つめていた。
部屋のあちこちから友人達の視線や気を感じる。
悠理の様子から言っても、迂闊に彼女に近付かないほうがいいだろうと判断した。
「少し、待ってろ」
清四郎は悠理にそう言い残し、ソファから立ち上がった。



戻ってきた清四郎を見上げ、悠理はすぐにまた目を逸らした。
清四郎が溜息をつくのが聞こえ、涙が出そうになった。
今日はお守り代わりの指輪もない。それがとても心細く感じた。
(あたいってば、いつからこんな弱っちくなっちゃたんだろ・・・)
自分から避けて離れたくせに、テーブル一つの距離がやけに遠く感じた。
今までなら、すぐ隣に座って清四郎の腕を掴んだり、その腕を背中や肩で感じたり、―――もっと本当に近くに感じていたというのに。
今では、この距離でさえ愛しく、そして逃げ出したくなってしまうほど苦しかった。

「体調もまだ本調子ではないようですしね、まぁ今回は大目にみましょう」
戻ってきた時に持ってきた一枚の白紙にボールペンを走らせながら、清四郎が言った。
悠理はその言葉に顔を上げ、そして何かを書き込んでいく彼の右手へと視線を移した。
「でも一切勉強しないという訳には行きませんよ。試験の二日前にはきちんと勉強を始めてもらいますからね」
しかし、悠理はその右手が綴っている言葉から目が離せなかった。

ふたりで話がしたい

「まず初日は、復習からしましょう」


放課後、屋上で待っている


「で、試験前日に、もう付け焼刃になるが仕方ない。ポイントだけでもこの日に。―――いいですね?」


―――頷く事など出来なかった。


「はい、失くさない様にちゃんとポケットに入れておいて下さい」
清四郎が立ち上がるのが見えた。

「すっぽかさないで下さいね」

悠理が顔を上げた時には、清四郎はもう美童や可憐のいるテーブルに向かっていた。
折り畳んで置いてあった紙片に手を伸ばす。
二行だけの、手紙。

「勉強なんてやだよ〜〜」
いつもの振りして、大袈裟に顔を覆った。
ソファに寝転び、駄々をこねる。―――振りをした。
それが、返事。

窓の外には、今にも降り出しそうな重い灰色の雲が広がっていた。
視界に野梨子が映り、悠理はまるでその天気を憂うように彼女に困った様に微笑んでみせた。
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