重苦しい気持ちを引きずってはいたが、学校に行かないわけにはいかない。
休めば、清四郎がまた来るのは目に見えているし、自分も何処かでそれを望んでいることに悠理は気付いていた。
部屋からずっと握り締めていた手を開く。
掌には、それの形がくっきりと付いていた。
「――悪いけど、学校の前によって欲しいトコがあるんだ」
行き先を告げると運転手は、ただ「わかりました」とだけ応え、進路を変えた。

チャイムを鳴らすと、すぐにインターホンから応答が逢った。
「あ、おばちゃん。あたい、悠理」
「悠理ちゃん?待ってすぐに開けるから」
その言葉どおりすぐに出てきた黄桜アキ子は悠理を目の前にしてもいささか驚きを隠せないようだった。
「可憐と約束でもしてたのかしら。嫌だわ、あの子ったら忘れてたのね。ついさっき出てしまったのよ」
悠理との約束をすっぽかし、先に学校に行ってしまったのだと思ったのか、アキ子は顔を顰めると溜息をついた。
だが元々可憐との約束なんてしていない。悠理は慌てて、手を振った。
「ち、違うよ。あたい今日はおばちゃんに用があってきたんだ。それに、出来ればここに今日あたいが来た事も今から言う事も可憐にも、みんなにも内緒にしてて欲しいんだけど・・・」
最後の方はいつもの様子からは想像できないほど消え入りそうな声になっていた。
俯いて、握り締めた左手を右手で更に上から庇うようにしている悠理を見つめていたアキ子は、優しく微笑むと「中に入って」と促した。

「紅茶でも入れてくるわね」
「ありがと」
リビングのソファに座った悠理は、アキ子がキッチンに消えていくと、漸く息をついた。
ぎゅっと握り締めていた左手を解く。
その中には、元は一つだったリングと石が、あっけなく離れ離れになっていた。
石を軽く指先で転がしてみる。
ボンドでくっつけただけのような簡単な作りのそれは、隠れていた部分が白く汚れていた。
「指輪かしら?」
トレイにカップを乗せて戻ってきたアキ子が悠理の掌に目を留めて言った。
反射的に隠そうとしてしまった悠理は、顔を赤らめると、おずおずとそれを差し出した。
「その・・・壊れちゃって・・・。出来たら直して欲しくて・・・」
悠理の掌からそれをつまみ上げたアキ子は、悠理の顔を真っ直ぐ見たた。
「大切なものなのね」
こくんと頷いた悠理は、恐る恐る顔を上げた。
「ゴメン、そんなおもちゃ。自分でもやってみようと思ったんだけど、その・・大事だから・・一番信用できる人に頼みたかったんだ・・・。おばちゃん、指輪とかそういうのプロだし・・・」
「と言っても私も業者に出すんだけどね」
悪戯っぽく笑ったアキ子に、悠理は「え!」と目を見開いた。
「私は鑑定したり売ったりするのはプロだけど、修理はそれこそ信頼している職人にお任せしているのよ。でも安心して頂戴。ちゃんとこれも責任を持って完璧に治して貰うから」
見る見る顔の曇っていった悠理を、安心させるように笑った。
「だって、そんな…職人さん、怒るよ・・・」
「大丈夫よ。彼等にとっても石がなんであるか、土台がなんであるかなんてのは余り問題ではないの」
「え?」
「その人がその指輪や、宝石達をどれだけ大切に扱ってくれてるかってことが一番重要なのよ。今の悠理ちゃんみたいに、こんなにも指輪のことを心配してくれてる人がいるなんて知ったら、彼等もとても喜ぶわ。私もそう言う人だから、お客様の持ち物を安心してお預かりできているのよ」
アキ子は席を立ちサイドボードまで行くと、そこから白い布を取り出した。
「確かにお預かりします。これなら、そうね明日にはもう直ってるわ」
片目を瞑ると、悠理が漸く笑った。
「処で」
急に嬉々としだした瞳に、悠理は思わず身を退いた。
「誰に貰ったのかしら〜。悠理ちゃんがこんなにも大事にするなんて、きっと好きな男の子よね〜」
流石は可憐の母である、普段の可憐とよく似た表情で嬉しそうににじり寄ってくる。
「す、好きだなんて、全然だよ!あんなヤツ、意地悪でイヤミで、いつも偉そうで。全然そんなんじゃないんだからー!」
「まぁ、清四郎君なの?!」
真っ赤になって「好きではない」と否定した悠理の言葉は、逆にその相手が誰であるかアキ子にバラす事になった。
「清四郎君てば、どうせ指輪あげるならうちで買っていってくれればいいいのに〜。それにしても、彼らしくないわねぇ。これってガラスだし」
「別に清四郎はあたいに指輪を贈ろうなんて気持ち、これっぽっちもないんだって。ただ、偶々それだったってだけで・・・」
悠理は、諦めるとボソボソとことの成り行きを語り始めた。


「フフ〜ん、それでそのまま指に嵌めたまま寝ちゃったって訳ね。そうね、それなら仕方ないかも、これって結構作りは簡単だし」
悠理は野梨子のことだけは省いて指輪が壊れるところまで説明した。
「それにしても悠理ちゃん、危ないわよ?こんな石が付いてる指輪して寝ちゃ。寝てる間に顔を引っかいたりするし。ま、肌身離さず持っていたいって気持ちもわかるけどね」
「ち、違うってば!外すの忘れただけなんだって!」
「ハイハイわかりました」
そう言いながらも、機嫌良さそうに指輪を見つめているアキ子に、悠理は困ったような表情を向けた。
「…ね、おばちゃん」
「ん?なぁに?」
「あの、ホントに、ね・・・?」
アキ子は安心させるように、微笑んだ。
「わかってるわ。この事は誰にも秘密、よね?―――でもね、悠理ちゃん」
一度は僅かに安堵の表情を浮かべた悠理の顔が、またも強張った。
「何…」
「決して指輪だけに想いをぶつけるような事はしないで?可憐や他のみんなに言えないのなら、私でもいい。絶対に一人で悩んじゃ駄目よ」
「おばちゃぁん…」
「ね?」

小さく頷いた悠理は、アキ子の笑顔に漸く少しだけ救われた気がした。
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