「待ってる、なんてやっぱり甘かったな」
清四郎はふっと笑みを零した。
そしてその次の瞬間には、いつも彼に戻っていた。

悠理を傷つけたくはなかった。
何を悩んでいるのかはわからないが、誰かを思って自分を避けているのはわかっていた。
だから、彼女の意思を尊重して自重してきた。
いつまでも待つつもりだった。
しかし、動かなければ何も変わらないこともわかっていた。
同じ場所にいては同じ景色しか見えない。
一歩でも踏み出せば、見えるものも変わってくるはずだ。例え、少しだけであったとしても。
悠理の心だって少しは見えるかもしれない。
動かせるかもしれない。

「さしずめ家に篭ってるってとこですかね」
家にいなければ外を探せば良いだけのこと。
清四郎は先ほどまで思い悩んでいたのが嘘のように颯爽と屋上を後にした。



やはり、悠理は剣菱邸内にいるようだった。
「嬢ちゃまは今、居られませぬ。本日はお帰りなるかどうかも・・・」と、
五代にまさに玄関ホールであっさりと門前払いを食らったのだ。
これでは、中にいますと宣言してもらったようなもの、と清四郎はほくそえんだ。
そして五代があえてそんな言い方をしたこともわかった。
以前なら慌てふためいて清四郎が邸内に入ることを止めようとしていたのに、今日のこの余裕。
清四郎は、正面突破は無理でもどこかに抜け道があることも同時に理解してた。
「ありがとうございます。なんとかして悠理には会います。どうしても大事な話があるので」
「お礼には及びませぬ。私は嬢ちゃまのご不在をお伝えしただけでございますから」
深々と頭を垂れる五代に、清四郎も頭を下げた。
踵を返し、玄関ホールを出る。
その後姿に、五代がもう一度声をかけた。
「先ほどからセキュリティの一部が故障しておりまして、修理屋が来るまでにまだ後5分ほどかかるそうでございます。ですので、お帰りになられる際は、いつものように門扉のロックはかかりませんがお気遣いなく」
振り返ると五代は先ほどと同じように深々と腰を曲げていた。
清四郎はもう一度頭を下げた後、走り出した。
正面の門扉ではなく、屋敷の裏へと。


悠理は部屋の真ん中で何をするわけではなく、ただ座って、窓の外を見つめていた。
先ほどまで降っていた雨は、今はもう完全にあがっている。
気にかかるのは屋上で待っているといっていた清四郎のことだ。
ロッカーのあるところで待っていてくれたとしても、アレだけの雨が降ればかなり気温は低かったはず。
鍛え上げられた躯体とはいえ、風邪などひかなかっただろうか。
それとも、そもそもそんなに待ってなどいないだろうか、来ないとわかっている自分のために。
「待ってるわけないか」
ふ、と息を小さく吐いた悠理の顔が歪んだ。
最近少しのことで涙が溢れ出してくるのだ。
それを止めようとして顔が歪む。
ぎゅっと目を閉じ強制的に溜まった涙を零す。そしてそれを手の甲で乱暴に拭うと上を向いた。
大きく息を吐く。
頭を空っぽにするように、暫く天井を見上げた。
気持ちを落ち着かせようと、なるべく頭の中から、心の中から、清四郎を排除する。

だが、右手が無意識の内に左手の薬指を触っていた。


妙な音が聞こえ、悠理は顔を正面に戻した。
相変わらず窓の外はただ静かだ。
しかし先ほど"妙な音"は聞こえた。
表現のし辛い、強いて言えば音と言うよりはどちらかといえばうめき声のような「くっ」だか「ウッ」だかそんなような。
今までの経験を思い出し、顔を強張らせた。
心身が弱っているときには特に憑き易いものだとどこかで聞いた事を思い出す。
「あたいは元気だぞ。大丈夫なんだ!」
言い聞かせるように口の中で唱える。
しかし、ふといつものあのおぞましい寒気がないことに気付いた。
妙な音もしなくなった。
耳を澄ましてみるが、やはりもう何も聞こえないようである。
悠理は肩から力を抜いた。
そしてやはり左の薬指を触っている自分に気付き、俯いて諦めたように苦笑した。
「バッカみたい、あたい」

ストン。
軽い音が、今度は確かに聞こえた。
窓の外。
音のしたほうを見た悠理の目は、大きく見開かれた。

バルコニーに、清四郎が立っていた。


「せーしろ・・・・」
悠理がそう呟いたのが、窓越しでもわかった。
清四郎は暫くその姿を見つめた後、そっとバルコニーのガラスに手をかけた。
ゆっくりと開いて、部屋の空気を感じる。
座っているというよりへたり込んでいるといったような悠理は、未だ信じられないといった風に目を見開いたまま固まっていた。
そんな悠理に少しだけ笑って肩を竦めてみせた。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
一歩一歩、悠理に近づき、その目の前で膝を落とした。
「まるで犯罪者の気分ですよ。避けられているのに、バルコニーから入ってきておまけに、お前を逃すもんか、なんて思ってる」
涙が伝う悠理の頬をそっと両手挟む。
「しかも、泣かせて・・・・・そのうえ、――――」


悠理は何が起こっているのか理解することが出来ないでいた。
目の前に突然清四郎が現れ、自分に近づき、触れ、そして、今、この体がきつく抱きしめられていても。
清四郎の唇が、こめかみから頬に滑る。
何かを言われているのだが、聞こえなかった。
ただ至近距離であの優しい目と目があったのはわかった。
唇に柔らかく暖かいものがぶつかる。

悠理の目の前は真っ白になった。
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