翌日も朝から雨だったが、昼には一旦やんだ。
悠理は一度ぎゅっと左側のポケットの中で手を握り締めると、歩き出した。

今日も倶楽部をサボった帰り道。
車には乗りたくなかった。乗れなかった。
どうしても昨日の清四郎の唇を、瞳を、体温を、思い出してしまうから。
思い出して、寒さに震えてしまうから。

雨はやんでもまだ青空は見えない。そろそろ本格的な梅雨を迎えたようだ。

雨上がりの空を見たい。
早く、晴れた空が見たい。
また雨が降りそうだ。

悠理はとにかく少しでも心を晴らしたくて、ボーっと学校近くの道をウインドウショッピングしながら歩いていた。
いつも並んで歩いて帰る二人が向かうのとは違う方向。
こっちならその姿を見ることもないはずだ。
今は清四郎にも、野梨子にも会えなかった。特に野梨子には、合わせる顔がなかった。
「雨、ふりそうだ、な」
言葉にすると、唇がひやりとした、気がした。

ふと悠理の目に雑貨店のショーウインドウが飛び込んできた。
暖かな光の中、可愛らしい雑貨が所狭しと陳列されている。
悠理はウインドウの前に張り出した軒の下に入り、ガラス窓を覗き込んだ。

ウインドウの中には、少年と少女がキスをしている人形。
少年の髪は黒くてさっぱりと短いようだ。そしてちゃっかりと白いタキシードを着込んでいる。
少女の髪は淡い茶色でセミロングの癖っ毛。服は白いワンピース。
まるで結婚の誓いのキスを交わしているかのような二人。
この二人は祝福されてるんだろう。皆から祝福されてるんだろう。
だってこんなにも幸せそうなんだもの。

胸が痛い。
悠理はもう何度目か誰もが数えるのをやめてしまうほど自然に、左手をポケットの中へと忍ばせた。

「あれ?悠理サンじゃないですか?」
急に男の声が聞こえてきたので、悠理は驚いて左手をポケットから抜き出しながら振り返った。
道の反対側にいたのは目をまん丸に見開いた、魅録のゾク仲間の男だった。奴も学校帰りなのか着崩しまくった学ランを着ている。
悠理はかあっと頬を染めた。
いけない!変に思われた!
「どーしたんすか?まるでオンナノコみたいですよ、悠理サン」
と、彼はからかいぎみにとんでもなく失礼なことを口にする。
「う、うるせーやい!腹が減ってるだけだ!あっち行け!」
悠理は手をしっしとさせながら大声で叫んだ。
「は、はあ・・・」
彼女のあまりの剣幕に、男は呆気に取られたようだった。
そんなに怒らせるほどからかったつもりはないものの、首をすくめながら早々に去っていった。

ふう、と一つため息をつくと、悠理は傘を立てかけておいた方へと振り返る。そしてそこに二人分の足が見えた。
「なにを大声出してますの?悠理」
と首をかしげているのは、野梨子。
そしてその隣でかがんで何かを拾っているのは清四郎。
悠理は再び動揺した。一番会いたくなかった二人なのに。
「ど、して、ここに・・・?」
清四郎が今拾い上げたものは、なに?と悠理の目はソレを追いながらも、口からは違う言葉を繰り出す。
「図書館の帰り道ですわ。悠理はお買い物ですの?」
野梨子はここ最近、元気のない悠理のことが気になっていた。自分が原因だとわかっているだけになおさら。
気がつけば、悠理のことを心配するようでいて、詮索するようなことばかり訊いている。
そんな自分にたまらない嫌悪を感じつつ、けれど悠理が心配なのは事実だった。
「ん、ストレス解消に、って清四郎?」
悠理の視線の先では、清四郎が小さな箱を開けようとしていた。
「さっき悠理のポケットから落ちたんですよ。なんで悠理がマッチ箱なんか・・・」
「え?」
悠理は慌てて制服のポケットを探る。
・・・ない!
「ダメ!開けないで!」
と悠理は叫ぶが、だがすでに清四郎はその箱の内箱を外箱からなかば押し出していた。
見えたのは敷き詰められたティッシュと・・・。

ばっ!と悠理が清四郎の手からマッチ箱をひったくる。

目が合う。
瞬間ばちりと火花が散るように、視線がぶつかりあう。
清四郎の黒い瞳が瞠られる。

数瞬の、沈黙。

悠理はそのまま黙って踵を返すとそばに立てかけてあった傘もがしりと掴んで走り去った。

野梨子は何も言えぬまま、悠理の背中を見送り、そしてすぐに清四郎の顔を見上げた。
ああ、彼はなんという表情をするのだろう?
だけれど野梨子には、そこで唇をかみ締めることも、顔をゆがめることも、許されてはいなかった。
見つめられていることに気づいたのか、清四郎は苦笑を浮かべると、
「まったく、どうしたんでしょうね?悠理ときたら」
とため息混じりに言った。
いや、呆れたように言ったつもりでも、視線にほんの少し混じる、今までと違う、何かの色。
野梨子にはその色が、わからなかった。ついさっきまでは見えなかったその色が。
「さ、帰りましょう」
静かに言う、彼のその声音もいつもどおりのようで、でもどこかが違う。
何かが違うのに、それが彼女にはわからない。言葉に、できない。

なぜ、清四郎は悠理を追わないのだろう?
「追いかけませんの?」
訊けばよかったのかも知れない。
少しでも悠理を追う気配を見せてくれたら、言えるのに。
「悠理の元になんか、行かないで」
そう、口に出せるのに。

後に彼女は考える。
あの時、そう言っていればどうなっていただろうか、と。

しかし彼女はそのきっかけを掴めぬまま、自宅の玄関先に立っていた。
彼の隣を歩く穏やかな幸福な時間。
知的会話を楽しむ時間。
そして彼女の胸をほんの少しの痛みが襲う時間。
今日もそれは終わってしまった。
今日は金曜日。次は月曜日の朝。

月曜日の朝も、私は清四郎の隣を歩けるのだろうか?

なぜ言えなかったのだろう?
悠理ではなく私を見て、と。
そんな目で悠理を見ないで、と。



悠理は走っていた。
耳元で風が囁き続ける。

知られた。知られた。知られてしまった。

修理から戻ってきた件の指輪。
「決してしまいこんだりしないで」
可憐の母にそう言われて渡された、指輪。

おばちゃん、しまいこむなんてできなかったよ。
本当はそうしなくちゃいけなかったのに。
あの清四郎からのキスに心が挫けそうになっていた。
諦めなくちゃいけない、思いながらも、喜んでいた。
振り切るのは、魂を引き千切られるようだった。
だから、まだしまいこむなんてできなかったんだ。

そのまま剥き出しでポケットに入れていれば、また壊れてしまうかもしれない。
職人さんが頑丈に修理してくれたと言っても所詮はおもちゃなのだから。
だからポケットに入れてもかさばらないように、マッチ箱に入れた。
これだったら、落としても中を見られなければなんだかわからないし。

箱にこめたのは、彼女の心。
しまいこんでしまいたい、心。
だけれど、捨てることができない、心。
誰にも知られてはならない、心。

なのに清四郎はやすやすと、この箱を、開けた。



「嬢ちゃま!どうなされたのです!」
玄関先で五代が叫んでいたが、
「なんでもない!誰が来ても部屋に入れんな!」
とだけ言うと、自分の部屋に駆け込んだ。
そうしてずるずるとドアを背に、座り込んでしまった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・

ぐるぐるとそんな言葉だけが、頭の中でこだましていた。
壁紙:ひまわりの小部屋