「悠理はどうしましたの?」
剣菱家の優雅な晩餐(週末なのでフルコースである)の終盤、デザートスプーンを動かす手を止めて、自宅の中であるのでゆったりをしたワンピースを身に着けた剣菱会長夫人・百合子は夫・万作に尋ねた。
ちなみにこの夫妻は長男が晩餐の食卓にいないことは大して気にしていないようであるが、いつものことである。
「それだがや」
と、いつものようにランニングシャツにステテコ姿の万作氏はスプーンを下ろす。

夕刻。玄関先の騒ぎに万作氏が書斎から顔を出すと、愛娘悠理はとうに玄関ホールを駆け抜けて階段を風のように上って2階の廊下へと姿を消すところだった。
「なんの騒ぎだべ?五代」
自分たち夫妻や長男が留守の間は、この家と娘を守る忠実な執事に尋ねた。
そして驚愕の事実を耳にするのである。

「まあ、清四郎ちゃんと?」
百合子の長い睫毛で縁取られた瞳がぱっちりと開かれる。
さすがに何が起こっているか具体的なことまではわからぬものの、清四郎が悠理に求愛し、悠理はそれから逃げているらしいというのだ。
「あの悠理が・・・ねえ」
と、百合子はデザートのアップルシャーベットを口に運ぶ。
「それで部屋に籠っちまってるだよ」
万作は腕を組んで眉根を寄せた。
夕刻の悠理の様子からすると、すぐ後から清四郎が追いかけてくるかと思ったのだが、いまだ彼は剣菱邸を訪れる気配がない。
「清四郎くんサ、所詮お坊ちゃんのいい子ちゃんだべ」
もっともっと押せばよいものを、と万作はため息までつく。

部屋の隅で控える五代は、
「あまりに押しすぎてこじれているのでは・・・・」
と思ったが、あえて口には出さなかった。
適切なときに適切な合いの手を入れる、それが五代家の役割。今はこのツッコミは不要なものと思われた。



そして悠理は拍子抜けしていた。
腹の虫の合唱で気がつけば、夕食時になってもまだ清四郎は現れなかった。
もしかしたら、マッチ箱の中身に気づかなかったのかもしれない。
どくん、と一つ鼓動が鳴る。

どうか気づかないでほしい。
でも気づかれないと、寂しい。

矛盾する想い。

そうだ。それに野梨子だってずいぶん思いつめた表情をしていた。
自分を追おうとする清四郎を引き止めて、もしかしたら、告白したのかもしれない。
だから、清四郎は来ないのかもしれない。
どくん、と一つ鼓動が鳴る。

どうか彼女が泣くようなことにならないでほしい。
でも二人が幸福そうに笑いあう姿を心から祝福できるかは、わからない。

矛盾、だ。

制服からラフなスウェット姿に着替えたものの、結局明るいダイニングまで行くのが億劫で部屋に運んでもらった食事も、味気ないものだった。
そういえばここのところ、心から何かを美味しいと思えたことがあったのだろうか?
彼女にとって食事が心から楽しいものでないなんて。
悠理は食事を半ばで終えると、机の上に放り出していたマッチ箱を手に取った。

この店も、清四郎と行ったのだった。
どこへ行ったのだったかドライブの帰り、渋滞に遭ってしまったこともあって予定外の場所で食事をすることになった。
そこは昭和に取り残されたような店だった。
ガラスケースの中に蝋でできたようなスパゲティミートソースやハンバーグやメロンソーダの見本が並んでいた。どれもこれも長年日に当てられているせいか色あせている。
いかにもな場末の安食堂。
けれども客はそこそこ入っているようだったので、二人は入ってみることにした。
そしてその店が、その場所でずっと存在し続けている理由を知った。
とにかく旨かったのだ。
素材も平凡なら盛り付けも平凡。なのに毎日でも食べられるかもしれない、そう思わせる素朴な味わい。
もう一度あのあたりに行くことがあるかどうかわからないが、レジのところに積んであるマッチ箱を手に取った。
店の名前と電話番号、住所が書いてあった。

もう、二度と行かないんだろうな。
そう思うとまた一つ、どくん、と胸が音を立てる。

悠理はきゅ、とマッチ箱を握り締めるとそっと中から指輪を取り出した。
「もう持ち歩くのもやめなくちゃな」
ゆっくりと指に通す。
どくん、と一つ鼓動が鳴る。

同時にぴかりと窓の外が光る。
「雷?」
さすがに悠理は注意をそちらに向けるが、雨音はせず、続くはずの雷鳴もかなりの時間を置いてごろごろと小さく聞こえるのみだった。
まるで鼓動のような、遠雷。

遠雷がまた一つ。
先ほどよりほんの少し近く。
近づいてくる。
嵐が、近づいてくる。

悠理はなぜだか、先ほどよりも自分の鼓動が早くなっていることに気づいた。

近づいてくる。
なにが?



こんこん、と不意にドアがノックされた。
悠理はびくり、と大きく身体を震わせたが、気を取り直して返事をした。
「五代か?なに?」
「嬢ちゃま、若がお呼びです」
老執事の声はいつものように落ち着いていた。
すぐに慌ててしまう五代の声が落ち着いているということは、特に心配するような事態が起きているわけでもないらしい。
悠理はほっと一息ついてドアのほうへと足を向けた。
「父ちゃんが?」
そうして何の疑いもなく開けたドアの向こうには、黒い瞳の男が立っていた。
驚いた彼女が反射的に閉めようとしたドアの隙間に身体を割り込ませると、男は口を開いた。
「姉貴に車を借りようと思ったら遅くなりましてね。今から海に行きましょう、悠理」
「な、なに言ってんだ、清四郎」
と、悠理はドアを閉めることを諦めて後ずさる。

一歩彼女が下がる。
一歩彼が進む。

「言ったでしょう?ストレスが溜まっているときには海がいいって」
そう言う彼の表情は緊張がほんの少しだけ漂っているものの、昨日までの顔からすると嘘のようになにやら揺ぎ無い想いを宿していた。
なんだかそれが彼女には悔しくてたまらない。
なにが彼をそうさせたのかはわからなかったけれど。
わかりたくなかったけれど。

彼女は次第に壁際に追い詰められていた。じりじりと、二人の距離も縮まる。
近づいてくる。
嵐が、近づいてくる。
「こんなおもちゃに頼るほどに、ストレスを溜めて」
言いながら、清四郎は悠理の左手を取る。
強張る躯幹とは対照的に力の抜けた彼女の手を持ち上げ、薬指の指輪に唇を寄せた。
そしてそのままぐいとその腕を引く。
「な、なにしやがる!おろせ!」
彼の着やせする逞しい肩に担ぎ上げられた格好になった悠理は、彼の背中をばんばんと叩きじたばたと脚を動かして抵抗する。
しかし彼は彼女をとり落とすこともなく、彼女の部屋を悠々と後にした。

「じょ、嬢ちゃま」
廊下では五代がおろおろとした表情で二人を見送っていた。
「五代!この裏切り者ー!誰も入れんなって言っただろがー!」
最後の抵抗とばかりに悠理が清四郎の背中あたりで叫ぶものの、五代はさらに困ったような顔を見せるだけだった。
「申し訳ありませぬ、若と奥様のお言いつけで・・・」
「は?!」
と、悠理が目を白黒させている間にも、清四郎は足を階下の玄関ホールへと向けていた。
悠理の両親は、廊下の向こうのほうからにこやかに手を振っていた。
「あの男にゃワイルドさが足りんと思ってただ。これで合格だがや」
「清四郎ちゃん、素敵よ」
口々に勝手なことを言う両親に、悠理は顔を真っ赤にさせて叫び返した。
「それが年頃の娘の親のセリフかー!!」

しかしその声は閉まりゆく玄関ドアによって隔てられ、最後まで剣菱家の人々の耳に届くことはなかった。
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