潮の匂いがいつもより濃い気がした。
空気もじっとりと水気を帯びて、重たい。

目の前に広がるのは黒々とした海。
耳に響くのは繰り返される潮騒。
そして隣には、恋しい男の温もり。
彼女の肩を抱く、彼の腕。

二人は、海岸沿いの駐車場に車を停めて砂浜へと降りる階段の途中に並んで腰掛けていた。
車に乗せられた途端、悠理は抵抗をやめていた。
途中、信号待ちの時にでも逃げようと思えばいつだって逃げられたけれど、それをする気力が湧かなかった。
ギアチェンジのとき以外は彼の左手が彼女の右手を握り締めていたせいかもしれない。

着いた場所は、あの日約束していた海。一緒に行った水族館に程近い場所。
夏場の海水浴客のためにしつらえられた無料の駐車場に車を停めているのは、今は彼らの一台だけ。
海岸通沿いを走る電車が、さっき通り過ぎていった。そのあとは、沈黙。
今にも泣き出しそうな夜空は厚い雲で覆われているのか星の光は一つも見えず、月の所在も全くわからない。
ただ東京都心や横浜がある方角だけは、街灯りで空が赤く染まっているので見当がついた。
時折、沖合いを船が通過していく灯りもわずかに見える。

だが、この浜辺には今は二人だけ、だ。

あのあと一言も発しない悠理に、ぽつりと、清四郎が言う。
「悠理は僕のことを好きでいてくれるのでしょう?僕の自惚れではなく」
悠理は頷くことなんかできない。あの指輪を持ち歩いているのを気づかれてすら。
そうは言っても「この自惚れ屋」と軽口を叩くこともできない。
「昼間にあんな顔見せられて、僕は平気でなんかいられませんよ」
あのマッチ箱がどこの店のものか、気づいてしまった。
あの箱の中に入っていた指輪に、気づいてしまった。
指輪と一緒に閉じ込められていた悠理の想いにも、気づいてしまった。
「この間も言ったと思うが、悠理が誰かのために僕を避けているのは知っている」
悠理は唇をかみ締める。
“誰か”とは他ならぬ野梨子。
大事な大事な、幼馴染。
「それが誰かはわからない。だけれど、悠理が僕よりも友情をとるような相手だ」
倶楽部の誰かとまで気づいていて、どうして野梨子だと気づいてやれないのか、この男は。
その鈍感ぶりに腹が立つ。
いまだ野梨子は清四郎に想いを告げられずにいるのだ。
「でも悠理、お前のその態度がその相手も傷つけているとは考えないのか?」
思いがけない言葉に、悠理は弾かれたように清四郎の顔を見上げた。

あたいが清四郎を避けることで、野梨子が傷つく?

悠理は部室にいづらかった。清四郎と野梨子が並んでいる姿を見るのが辛かったから。
それを悠理が自覚したときから、部室は居心地の良い場所ではなくなってしまった。
だけれどそれは悠理にとってだけではなく、誰にとっても、と清四郎は言うのだ。
「このところ皆ろくに部室に滞在してませんよ」
清四郎はふう、とため息をついた。
もちろん自分も部室に閉塞感をもたらしているという自覚はある。
悠理に避けられて苛々している気を隠せていない。魅録に指摘されるまでもなく、自覚している。
「でも僕は、わかっていてもお前とお友達に戻る気なんかないんだ」
卑怯な言い回しなのはわかっている。
友人思いの悠理の優しさにつけこんでいるのはわかっている。
「悠理。僕は急がない。けれどいつか、僕の恋人になってくれないか?」
本当は言いたい。今すぐにと言いたい。
彼女を苦しめている誰かを問い詰め、その相手を詰ってしまいたい。
けれど彼女はその優しさゆえに、決して相手の名を明かしはしないだろう。
そして清四郎もどこかで、知りたくないと逃げているのだ。

一つだけ譲れないことがあるから。
「悠理、僕は誰を傷つけることになっても、お前を選び取る」
傷つける相手が誰かを知らずに済めば、迷うことはないのだろう。
知ってしまえば清四郎とて迷うのだろう。

だが相手が誰であれ、もう引導を渡してやらねばならないのだ。

清四郎は悠理の頬を両手で覆う。
悠理は近づいてくる彼の顔をじっと見つめていた。
そしてゆっくりと瞼を閉じると、その唇を受け入れ、彼の背中に腕を回した。

涙が、すうっと彼女の頬を滑り落ちた。

と、ぴかっと瞼が明るくなる。
すぐ近くで耳を劈くほどの大音響が響き渡る。
二人が目を見開くと同時に、大粒の雨が叩きつけられ始めた。
「うわっ」
「車に戻るぞ!」
車まではほんの数メートル。
けれど二人は頭のてっぺんから足の先まで海にでも潜ったかのようにずぶ濡れになってしまった。
ようやっと乗り込んだ車のシートにもたっぷりと水分が染み込んでいく。
「こりゃあ、姉貴に怒られますねえ」
ハンドルにつっぷしてため息をつく清四郎に悠理は一瞬焦ったが、だけれど次の瞬間には「ぷ」と吹きだしていた。
「すげえタイミング」
くすくすと笑う彼女に清四郎はぶすっとした顔を向けるが、だがやっぱり彼もその顔を綻ばせた。
悠理が、笑っている。
それだけでもこの雨に感謝、だな。

まさしく水入り。無粋な雨。
くしゃん、とずぶ濡れのスウェットを身にまとっただけの彼女がくしゃみをした。
清四郎とていつもどおりのシャツに綿パンに薄手のジャケットといういでたちである。
このままでは風邪を引きかねない。
「どこかで服を乾かして帰りますか」
清四郎はギアをドライブに入れた。



見つけたのは一軒のラブホテルだった。
海岸沿いの道を遠くまで見通してみるが、しばらくは他に明るい場所は見えない。
「ここしかないようですよ」
清四郎は眉を寄せながら言う。
悠理はしばらく逡巡していたようだったが、
「いいよ、入ろう」
と言った。

週末のせいなのか、さほど車通りの多くない道沿いであるというのに一部屋しか空いていない状態だった。
部屋の様子が見れるパネルの横のボタンを押すと、近くのエレベーターのドアが開いた。

悠理は先にシャワーを浴びてバスローブに着替えると、所在なさげにベッドの端に腰掛けていた。
今は続けて清四郎がシャワーを浴びている。

清四郎のことは信じている。
「急がない」
そう言ってくれたのだ。
けれど、と悠理はシーツを皺がよるほどに握り締めた。
野梨子はきっと、いまこの瞬間も胸を痛めている。
どっちに進んでいいのかわからない暗い海原で、一人立ちすくんでいる。
事態がどう転ぶにしたって、早く彼女をそこから救ってやらなければならない。

そして清四郎をも随分と傷つけてしまっていたのもわかっていた。
悠理が彼を拒んだときのあの瞳の奥の傷が、忘れられない。

シャワーから出てきた清四郎は、彼女が腰掛けているのとは反対側のベッドの端に無言で腰を下ろした。

沈黙が流れる。

ことが後先になってはいけないのは二人ともわかっている。
ちゃんと決着がついてからでないといけないとわかっている。
けれど・・・。

悠理は、清四郎を離してしまうことなどもうできなかった。
居心地の良い腕を、温かな唇を、知ってしまったから。
彼と強烈に惹かれあう心に気づいてしまったから。
この想いを消し去るなんてできないと、わかってしまったから。

まるでそうあることが必然であったように、言葉もなく二人はもつれあうようにベッドに転がっていた。
視線が絡み合うと、もう逸らすことなどできない。
「あたいはお前にふさわしくないのに」
悠理の口をついて出た言葉を、清四郎が己の唇で飲み込む。
「誰にもそんなことは言わせない。悠理はいつだって僕の予想外のことをして、僕をいい方向に変えてくれるのだから」
自分は悠理に出会えなければ、きっと砂のように味気ない人間になっていたに違いない。
「いい方向?本当に?」
悠理の瞳から、迷いが消えていく。
罪悪感の翳りだけは決して消えはしないけれど。
「ええ、本当に」
清四郎はそっと悠理の身体にかける重みを増していく。

もう、手放すなんて、できない。

外は大雨。
すべてを洗い流すように、すべてを包み隠すように。
いまこのひと時を、すべてから隠し守るように。
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