知らない間に雨が降っていたらしい。
細い雨。
細やかで、静かで。
木々や葉や路に染入る雨。

まるで、この胸の中のもののようだと悠理は思った。

いつのまにかこの中にあった清四郎への想い。
日々の生活の中での小さな出来事が胸の中に沁み込んでいる。
静かに育ってきたこの想いにやっと気付けた。

だが、この雨がいつか止むように、この想いもやがて消えるのだろう。
消さねばならない。
消さねば、傍にいることなど出来ないのだから。

雨上がりの空気が好きだった。
だからきっとこの思いが消えることも怖くはない。




電話が、鳴ってる。あの着メロは倶楽部の誰かからだ。
悠理は急速に意識が現実に戻ってくるのがわかった。
「ん・・・」
と頭上で自分のものではない、低い声が呻いた。
男の裸の胸に顔を埋めている自分に気づき、悠理は一気に覚醒した。

あ、そうだ。今のは夢だったんだ。

消せなかった。
結局あの想いは消すなんてできやしなかった。

現実には今、清四郎の腕の中にしっかりと抱きしめられている。互いに一糸纏わぬ姿のままで。
清四郎は前髪も下りきった無防備な寝起きの顔を曝している。
どれくらいの時間まどろんでいたのか。悠理はかなり長時間眠っていたのではないかと感じた。
雨はまだ降っているのだろうか?密事のためにしつらえられた部屋は、中の気配を外に漏らさぬ代わりに、外の気配も窺うことはできない。
「悠理のケータイじゃないのか?」
と掠れた声で言われて、そういえば己の意識を覚醒させたものの存在を思い出す。
もうとっくに着信音は止まっていた。留守電にでも切り替わったのだろう。
悠理はのろのろと起きだすと、サイドテーブルに置いていた自分のケータイを手に取った。
時刻を見ると、ここへ来てからまだ1時間半ほどしか経っていない。やっと午後10時半を過ぎたばかりというところ。

発信者名は───野梨子だった。

ケータイの画面を見たまま悠理は固まってしまった。
ああ、ばれてしまったのだろうか?どこかから見ているのだろうか?
そんな錯覚すら覚えてしまう。
「誰からでした?」
清四郎が寝転んだまま訝しげに尋ねる。
だけれど、悠理は反射的に答えていた。
「間違い電話、みたい」
きっと清四郎にはすぐばれる嘘。
こんな動揺した声で言ったってばれるに決まってる。
だけど今は、この電話は間違い電話でなければならないのだ。

清四郎は知っていた。
こんな様子の悠理は嘘をついている、と。
そして悠理はケータイの着信音を、グループごとに分けていた。
倶楽部の皆の番号には、同じ着メロを割り振っているのだ。

清四郎はふっと一つ息をつくと、髪をかきあげながらベッドから身体を起こした。
「もう一度シャワーでも浴びてきますよ」
そうして頭を少し冷やしてこよう。彼はそう思った。



水音が響き始めたのを確認してコールバックすると、1コールで野梨子は出た。
「もしもし?あたい」
『悠理?いま大丈夫ですの?』
その言葉に悠理はどくん、と胸が音を立てる。
「あ、ごめん、ちょっとうとうとしてただけ」
それは嘘じゃない。
『そうですの。その、今から出て来れません?皆で飲んでいるところですのよ』
意外なセリフに耳を澄ましてみると、確かに野梨子のいる場所は賑やかな場所のようだった。
「皆って、皆か?」
ちらとシャワールームのほうへと目を遣る。
『ええ、清四郎は運転中みたいで電話に出ないのですけれど、他は皆ですわ』
そうか、さっきまで運転中だったな。彼のケータイはまだ運転中モードのままなのだろう。
『それで、ねえ、出てきません?あなた、このところ元気がありませんでしたでしょ?ここのところの憂さを晴らしたいと、魅録が皆を呼び出しましたのよ。』
言われてみれば、野梨子からの着信のほかにも2,3件ばかり着信があったようだ。
移動中だったりで気づかなかったらしい。

───野梨子は、優しい。
元気がなかったあたいを、気遣ってくれてる。
それはもちろん野梨子なりの罪悪感もあったんだろうけれど。
でもあたいは、ずるい。
まだ彼女に自分の気持ちを明かしてすらいないのに、清四郎を選び取ってしまったのだ。
彼女に優しくされる資格なんか、ない───

電話の向こうで可憐の声が聞こえる。
『清四郎の奴、まだ運転中みたいよ。いったいどこまで遠出してんのよ』
ここだよ。
『悠理?』
野梨子が不安げに眉を寄せている姿が目に浮かぶ。
「清四郎も、ここにいるよ」
ぽつりと呟いた言葉は、だけれどしっかりと野梨子の耳にも届いたようだった。
『え?せ・・・』
「いま清四郎と、ホテルにいる」
『清四郎と?』
「ごめん。明日全部話す」
一息に言うと、悠理は電話を切った。
これ以上ここで、壁一枚隔てたところに清四郎がいる状況で、話すことなんかできなかった。



野梨子が電話を手に持ったまま呆けている。こんな彼女の姿はそうそう見るものではない。
「野梨子?悠理はなんて?」
美童はよもや、と思いながら尋ねる。予想通りなら自分は随分と残酷なことを尋ねているに違いない。
「清四郎と、ホテルにいると・・・」
「ホテルぅ?」
可憐が頓狂な声で訊き返し、美童と魅録は肩をすくめて顔を見合わせた。

魅録は夕刻、悠理と、そして恐らくは清四郎と野梨子との様子を見たというダチの言っていたことを思い出す。
やはり、コトは動いたか。
見聞きした3人の様子から限界を感じ、魅録は皆を呼び出したのだった。
これが吉と出るか凶と出るかは、わからなかったが。

野梨子の頬が見る見る赤くなったかと思うと、顔をゆがめて口を開いた。
「・・・不潔ですわ!」
低く搾り出されるような声に彼女のすべての怒りが凝縮されているようで、可憐と魅録は思わず身を竦ませた。
「ふうん、野梨子にとってはそういう行為は不潔なんだ」
驚くことに、続けて紡ぎだされた美童の声は穏やかで、どことなく揶揄を含んでいた。
野梨子はきっ、と美童を睨みつける。
「あなたにとってはどうかわかりませんけれど・・・」
「じゃあ野梨子はたとえ清四郎が野梨子を好きだと言っても、彼に抱かれる自分は想像できない?」
手を繋いだりキスしたりする自分すら想像できないんじゃないの?その様子じゃ、と美童は苦笑する。
野梨子は完全に頭に血が上っていた。
「あ、あなたを基準になさらないでくださいな!」

それは決定的な一言だった。

「じゃあ、野梨子の気持ちは恋じゃないんだよ」
───恋をしたらね、キスをする自分くらいはどんなにウブで潔癖な人でも想像できるものなんだよ。

美童の青い瞳は、野梨子の気持ちを全部見透かしているように澄んでいた。

野梨子は、急に温かみを帯びたブルーに目をとらわれ、何も言えなくなった。
蒼ざめソファーの背もたれにどっと寄りかかる彼女の肩を、可憐がそっと抱いた。
「おい、いくらなんでも言いすぎだろ」
魅録が美童の額を軽く小突きながら窘める。
だが美童は平然としてコニャックのグラスを口に運んでいる。

確かにそういうものなのかも知れないわね。と可憐は思っていた。
好きになった人と手を繋ぐ自分を想像する。
好きになった人に抱きしめられる自分を想像する。
好きになった人と唇を交わす自分を想像する。
まだその先まで許せると思える人とは出会っていないけれど、いつだってそこまで許せるかどうかは考えている。
それが、彼女の恋。
もちろん野梨子なんかと比べたら、彼女のキスは軽いものではあるけれど。

一方、野梨子は思い出そうとしていた。
過去の彼女の恋を。あの淡い淡い、初恋を。
あの時、私は懐かしいあの人と口付けを交わす自分を想像したりしただろうか?

ただ言えることは、彼に抱きしめられることも、彼の唇が額に触れたことも、決して嫌なことではなかった。
決して嫌ではなかったのだ。

外は、雨。
※この回、冒頭部分のみナオさま筆

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