清四郎は、どうにも腑が落ちずベッドから体を起こした。

本来なら今頃高速の上か、早ければ海沿いを悠理とドライブしている頃だ。
日も高く、夕食にはまだ早いこの時間だが、悠理が「お腹が空いた」と騒ぎ出して苦笑しているぐらいだろう。
軽く何処かで食事をして、海で少し遊んだあと、夕食を取って帰宅する予定だった。
それは試験勉強中から、ふたりで立てた計画であり、悠理も楽しみにしていたはずだった。だが数時間前に送られてきたメールには
「眠くて死にそう。今日の海は中止な」
と、至って簡単な断りの内容が記されていた。
すっかり予定がなくなってしまい、さりとて何もする気が起きなかった清四郎は普段あれやこれやと何かと忙しい彼には珍しく、自堕落に帰宅早々ベッドに寝っ転がって居た。

悠理はメールを送ってすぐに帰ったのか、昼休みにはもう学校から姿を消していた後だった。
恐らく悠理が帰る直前、4時限目が始まる前に偶然会ったという野梨子の言葉によれば、相当ダルそうな顔をしていたらしい。
悠理がかったるいと言って授業をサボる事はいつもの事だし、それはそれで不思議ではない。
だが、何故か清四郎は妙に気になった。
遊びに行くのを断るだなんて、本当に「眠い」だけなのだろうか、と。
少し考えてから立ち上がると、棚に置いてあった薬箱から何種類かを選び出した。

「おや、野梨子」
清四郎が丁度玄関を出ると、門扉をくぐってきた野梨子と出合った。
「あら、出かけますの?きっと時間を持て余しているだろうからって、茶菓子を持ってきたのですけど・・・。悠理との約束は中止になったのでしょ?」
鞄を持っているのを見てか、野梨子が微笑みながらも首を傾げる。
清四郎は「あぁ」と右手に持ったその鞄を少し掲げると、野梨子の方へ歩き出した。
「様子が気になってね。もしかしたら風邪でも引いたんじゃないかと。今回の試験勉強は相当堪えていたみたいですから。一応薬を渡しておこうと思って」
もし風邪だったら僕にも責任があるでしょ、と笑いながら付け足して、清四郎は野梨子の脇を通り過ぎた。
「でも、本当に眠そうなだけに見えましたわよ。寝ているところを起こすと機嫌が悪くなるのじゃありませんの?それにもし風邪をひいていたとしても、お薬ならちゃんと用意ぐらいしてありますわよ」
野梨子の言葉に、確かに、とも思った。
悠理は寝ている処を起こすと相当機嫌が悪い。
試験勉強に早朝から剣菱家に行くと、大概不貞腐れた顔で出迎えてくれる。
それは勉強が嫌だからと言うのも多分にあるのだと思っていたら、五代によれば自発的に起きてくる時以外、普段からあまり機嫌は良くないらしい。
特にその時いい夢を見ていたりすると、それは格段に悪くなるという。
「ま、寝ていたら起こさずに帰ってきますよ。それにもし風邪だったらやっぱり困りますからね」
「珍しく責任でも感じていますのかしら?悠理が風邪をひいていたら、自分が無理やり勉強させた所為だって」
なんだかその言い方に棘を感じたが、清四郎は肩を竦めてみせた。
「珍しく、とはひどいですねぇ。僕は悠理のためを思って厳しくしているだけですよ。それに僕が困るといったのは、今剣菱に悠理の薬がないからですよ。この間行った時に五代から頼まれていましてね。どうも僕が合わせた薬が一番効いてくれているらしくて」
健康優良児の悠理は風邪などめったにひかない。
が、だからこそ偶にひくと結構酷いのだ。
いつだったかひいた時に、清四郎が調合した薬を飲ませるとそれがよく効いたらしくそれ以来、風邪に限らず悠理の薬は全て清四郎が調合していた。

「せっかく気を使ってくれたのに、悪いですね。だけど、一旦気になると確かめない事には気がすまなくて」
清四郎は自分でもそんな性格に呆れているのか、野梨子にすまなさそうに謝った。
「お袋や、今日は姉貴も居ますから、もし良かったら二人の相手でもしてやってください。それじゃ、とりあえず行ってきますよ」
軽く片手を挙げて見せた清四郎は、野梨子に背を向け歩き出した。



悠理は、焦っていた。
先ほど五代から「清四郎様がいらっしゃいました!じいにはお止めするなんてことは無理でございます。嬢ちゃま、早く寝た振りでもなさいませ」と内線が入ったのだ。
約束をメール一本ですっぽかしたのだ、怒っているのかもしれない。
ともかく様子を見に来たのは明らかだ。
ここで、寝ているわけでもなく、かといって何かをしているわけでもない処を見られるのはまずいと思った。
野梨子の様子からいっても、まだ清四郎は何も知らないらしい。
自分がそれをばらすわけにはいかないのだ。
悠理はとりあえずパジャマに着替えようとクローゼットに駆け込んだ。
帰ってきたはいいが、なんだか何もする気が起きず着替えすらしていなかったのだ。
ぼんやりしていたつもりはなかったのだが、五代からの連絡で初めて、今が時間で言えば放課後であることや、帰宅してから何も口にしていなかった事を思い出した。
帰ってきてからした事と言えば、「暫く清四郎を邸内に入れるな、学校以外で会わない事になったんだ」と託けた事ぐらいだった。
制服を脱ぎ捨てとにかくパジャマを着込むとボタンも一つ二つ留めた、という状態でベッドに滑りこんだ。
ドアがノックされたのは、丁度その瞬間だった。

悠理は、暫く寝た振りを決め込む事にした。
もしかしたら、このまま返事をしなければ諦めて帰るのではないだろうかと思ったのだ。
だが、そう上手くことは運ばない。少し間があって、もう一度ノックの音が聞こえた後、そっとドアが開いたのがわかった。
入り口から様子を窺っているのか、近寄ってくる気配は感じない。
眼を瞑って身動きしないように、時間が経つのをただ待った。
心が騒ぐ。
じっとしているのに、自分の心臓の音があまりにも煩くて、その音で起きている事がバレてしまうのではないかと思うほどに。
しかし野梨子の気持ちを気付かれるわけにはいかないのだ。
自分が迂闊に口を滑らせてしまう事によって、それが現実になりかねない。
寝た振りをしてやり過ごすのが、今の悠理にとって一番の得策なのだ。
だというのに――――。
無常にも足音は、そっとだが近付いてきて、ベッドの右端が僅かに沈んだ。
恐らく腰掛けて、様子を窺うように覗きこんでいるのだろう。そういう気配を感じた。
そして、悠理には何故かその表情までわかった。
きっと時折見せるあの優しい眼をしているのだろう、と。
その勘にも似た予想はやはり当っていたらしい。
優しく前髪が掻き揚げられ、額に温かい大きな手が触れた。

「熱なんかないぞ」
思わず、だった。
額に置かれたその手を捕まえるように、シーツから右手を出し掴む。
ゆっくりと眼を開けると、驚いたような顔があった。
「起こしてしまいましたか」
身を退いた清四郎はやはりベッドに腰掛けていた。
ベッドが広いので、そのまま上半身だけを身を乗り出すように、悠理に手を伸ばしていたらしい。
普通の姿勢に戻ってしまった今は、悠理からすればやけに遠く感じた。
「ウトウトしてただけだから」
今更ながらに口を開いてしまった後悔と今後の自衛、あともう一つなんだか良くわからない気持ちに、体を清四郎に向けはしたが、シーツを鼻先までかぶって顔を隠した。
「ゴメン。今日約束破って」
怒っているわけではなさそうだった。だが、理由はどうあれ嘘をついて約束を反故にしたことには変わりない。
悠理自身が今日の約束を楽しみにし、勉強の間もせがんでしまっていた事からそれだけは謝っておきたかった。
「いいですよ。疲れが出たんでしょう。海はまた今度にしましょう」
うん、と頷くわけにはいかなかった。
もう清四郎とは出かけない、そう野梨子と約束したのだ。
今こうしてふたりでいる事も、きっと彼女が知ったらいい気持ちにはならないのかもしれない。
悠理は「ゴメン」とだけしか言えなかった。

「それよりも、顔色が良くないですよ。熱も今はなくとも、これから出るかもしれない。薬を持ってきたから、夕食の後にでもちゃんと飲んでください」
清四郎はそう言うと、鞄から紙袋を取り出し、何種かの薬包紙を悠理に見せた。
「お前、ホントに医者みたい」
これは感冒薬、これは胃腸薬、と一つ一つ説明する清四郎を見ていた悠理は、シーツからちゃんと顔を出すとクスクス笑い出した。
だがそれは清四郎からすれば、逆に心配の種になったようだ。
「いつから調子悪かったんですか?眠いだけにしてはやっぱり元気がなさすぎますよ」
また身を乗り出し、悠理の額にそっと手を乗せる。
悠理は、顔や体が急に熱くなるのを感じた。
「だ、大丈夫だよう。寝てたから、その・・飯食ってないんだ」
ズリズリと、シーツの端を持ってまた顔を隠すようにベッドに潜り込むと、眼だけを出して答えた。
しかし今度こそ墓穴だった。
「食べてないって・・・!いつもなら、いくら寝ていたってお腹が空けば目が覚めるでしょう。やっぱり何処かおかしいんじゃ・・・」
「お、おかしくなんかないぞ。全然、おかしくない」
悠理はくるりと体を反転させ、清四郎に背を向けると頭からシーツをかぶった。
「あたい大丈夫だから。ちゃんと薬飲んで寝るから。だから、お前もう帰れよお」
これ以上清四郎がここにいては、やはり野梨子のことまで口を滑らし兼ねない。
清四郎にかかると、自分でも何故か言わなくていいことまでつい言ってしまうことを悠理は経験上いやっと言うほど自覚していた。
それに加え、先ほどから本当に熱が出てきたのか、顔が火照って仕方なかった。
鼻の奥がツンとして、眼の奥までその疼きが広がってくる。
「悠理」
この瞬間、更にその疼きは、頭の芯まで広がった。
「なんだよ・・・」
背に清四郎の視線を感じる。
悠理は眼を閉じると、言葉を待った。
「―――いや、何でもない。ちゃんと寝てるんですよ。僕はもう帰りますから」

自分で言っておきながら、悠理は、勢いよく振り返った。
立ち上がり、此方を見ていた瞳と目が合う。
清四郎にしては珍しく、何処となく力がないような眼。
「せ・・せぇしろ・・・」
「はい」
清四郎に向かいたがる手をシーツを握る事のよって押し留め、言葉を探す。
だが、頭の中には色んなことが渦巻き、何も考えられなくなっていた。
野梨子の気持ち、清四郎とふたりで居ちゃいけないということ、でも今―――寂しいこと。
もう少し、ここにいて欲しい、早く帰って欲しい。
二つの気持ちがせめぎ合う。
「ゴメン。何でもない」
「・・・そうですか」
ふたりの間に、不思議な間が流れた。
お互い何か言いたいことがあるはずなのに、いつものように簡単に口に出すことができない。
何か考えて居た風な清四郎は、やがて小さく息を吐くと、ベッドに片手をつき悠理の額に触れた。
悠理の視界がじわりと滲む。
「やっぱり少し熱がある。よく寝てください。・・・おやすみ」
スッと体が離れ、悠理は思わず「あっ」と声を出して、その手を捕まえた。
「あ、あの・・・。今日、ゴメン。それで・・・・」
「わかってますよ。海はまた今度。今は体を充分休めてください」
伸ばされた手を握り返し、清四郎は微笑んだ。
その笑顔に安心すると、悠理は「うん」と頷いた。
「それじゃぁ、帰ります」
「うん」
どちらからともなく、手が離れる。
今度は寂しくなかった。

「そうだ、悠理」
「なんだよ」
部屋を出て行こうとしていた清四郎が振り返って近寄ってくると、少しだけ思案顔をした後、再度口を開いた。
「起こしてしまった事。野梨子には黙っていてください。ここに来る前に、注意されたんですよ。寝てるお前を起こしに行くつもりか、って」
悠理は緩んでいた頬が一気に強張るのを感じた。
はにかむ清四郎の顔が見れなくなった。
「野梨子と、一緒だったんだ・・・」
それは自分も望んでいた事だったのではないのか。悠理は何故自分がこんなにも重苦しい気持ちになっていくのかがわからなかった。
先ほどあれだけ、安心できたのに。
「玄関を出たところで会ったんですよ。暇を持て余してるだろうからと気を回してくれたみたいでね」
今更ながらに、野梨子の気持ちが痛いほどわかる。
自分でもこんなに不思議な気持ちになるのだ、好きであれば尚更なのだろう。
「そっか・・。じゃ、じゃぁさ。寝てたって言っとけよ。寝てて会わなかったって。あたいももし聞かれたらそう言っとく。あたいだって、ほら、心配とかされたら嫌だし」
「頼みます」
「うん」
「それと・・・」
「うん?」
清四郎は一呼吸おくと、至極真面目な顔をした。
「何かあったのなら、言ってください。間違っても一人で考え込むんじゃない」
「せぇしろ・・・」
「お前は放っておくとすぐ無茶をするからな。・・・じゃぁ、お休み」
はにかむように微笑み清四郎が出て行くと、悠理は胸の苦しさに、たまらず枕に顔を押し付けた。
壁紙:空色地図