真っ青な空とは裏腹に、悠理はぼんやりする頭を抱え正門をくぐった。
周りから、「おはようございます」と女生徒達の挨拶の声が聞こえてくる。
いつもなら適当に応えてやり過ごすのだが、今日はそれすらも億劫だった。
何をするのも気力が沸かなかった。
「よおっす、悠理。なんだよ、酷い顔色だな。飲みすぎか?」
背後から声をかけてきた魅録は、顔を覗きこんでそのいつもとは違う様子に呆れているようだった。
「別に二日酔いなんかじゃないけど・・・。でも風邪かも。なんか身体ダルイし」
へへっと笑うと、首を左右に曲げて鳴らしてみせた。
「そういや昨日もなんかダルそうだったって野梨子が言ってたな。気を付けろよな」
うん、と答えてはみたがその後、何か喋り続けていた魅録の声はほとんど悠理の耳には入っていなかった。
悠理の視界には、同じ制服に身を包んだ人込みの向こうの清四郎と野梨子の姿があった。
二人はもう校舎の中に消えていくところで、周りの生徒達がその様子を、憧れと羨望の眼差しで見つめている。
恐らく生徒達の中では二人は単なる幼馴染という関係ではなくそれ以上として認識されているのだろう。
二人をよく知る悠理の眼から見ても、それがごく自然に思えることがあるのだ。何も知らない人間から見れば尚の事の筈。
そして、いずれそれも事実となるのだろう、と悠理は思った。
野梨子がその想いに気付いたのだから。
その想いを隠せなくなってきているのだから。

急に辺りがやけに眩しく感じ、悠理は目を閉じた。


「悠理、大丈夫ですか?」
生徒会室に魅録と共に入ると、真正面に清四郎が座っていた。
その姿だけで、心臓が鷲掴みにされたように痛む。
だがその隣に野梨子の姿を認め、悠理は無理やり笑顔を作った。
「お、おはよー。昨日ごめんなー。来てくれたんだって?あたいなんか爆睡してたらしくてさー」
二人の向かいに座ると、机の上に鞄を乗せる。いつも通り。
「何だよお前寝すぎかよ」
調子悪そうだからさぁ、と魅録が横の椅子を引きながら清四郎に先ほどの様子を伝えている。

悠理は、野梨子が気になって仕方なかった。
自分のとる態度の一つ一つが、野梨子にとって不快なものにならないように、なるべく清四郎を意識しないように……。
しかし、そう思えば思うほど―――というヤツなのか、どうしても意識してしまう。
気持を落ち着かせようと、そっとスカートのポケットをその上から握り締めた。

中にはあの指輪が入っている。
清四郎が帰ってから取り出したこの指輪を、また箱に戻すことができなかった。
このほんのおもちゃでしかないはずの指輪に、なにか不思議な魔力でもあるのかと思うほど、"離れがたかった"。
一晩中、ベッドの中で眺めていた。
そして、考えた。
―――自分にとっての、この指輪の意味を。
出た結論は、何度も何度も打ち消してはみたが、動かす事の出来ないものだった。
諦めて認めた時、悠理は思わず笑ってしまった。
選りにも選ってな、と。
決して望んではいけない相手だというのに。
元より、望んだからと言ってどうにかなる相手ではない。だが、「望む」という自由はあった。
しかし今はもう、望むことすら、叶わないのだ。
それが自分で作った足枷というの名の自己防衛であることは、悠理も百も承知である。
好きなら好きだと、野梨子にちゃんと言えば良いのだ。
フェアな勝負、ではないが、隠しとおす必要はない。
それが素直な気持なのだから。
その上で、昨日の発言を忘れて欲しい、と。ちゃんと気付いたんだ、と伝えれば良い。
だが、それをしないのは、彼女を傷つけたくない、という気持。
彼女を傷つけて自分が傷つくのが嫌だという、エゴなのだ。
気持を野梨子に伝えてしまえば、堂々と清四郎と今までのようにじゃれあえるのかもしれない。
しかし、それを見た野梨子は?
清四郎と野梨子、二人が一緒にいる処を見るだけでもどうしようもない気持になる自分には、そんな光景を見た時の彼女の気持が今なら痛いほどわかる。
だから、初めから望まない、事にしたのだ。
清四郎への気持を、押し留める。
それだけで、誰も傷つかない。自分さえも。

悠理は、スカートの上だけからではなく、その中に手を入れて直に指輪に触れた。
ずっと上から握っていた所為でほんのり暖かくなっている。
少しだけ、安心できた。
(あたいにはこの指輪がある。だから大丈夫だ)

「悠理?」
コトリという音にいつしか下を向いてしまっていた顔を上げると、野梨子が湯のみを目の前に置いてくれたところだった。
心配そうに、そして悠理の瞳の奥を窺うように見つめている。
「あ、ゴメン。ありがと」
悠理はもう一度だけぎゅっと指輪を握り締めると、手をポケットから出して笑顔を見せた。

「本当に大丈夫なんですか?」
その声だけで体が熱くなる。
「大丈夫だって。野梨子もほら、んな顔すんなよお。それより何か食べるもんないか?」
紅くなっていそうな顔を隠すため立ち上がり野梨子の脇をすり抜けた。
皆から背を向けるように戸棚に向かう。
思っていた以上に体が反応する事に、悠理はこれからを思い、少し気が滅入った。
「お前なぁ、もうすぐ授業が始んだぞ」
何も知らない魅録の声が、当然のことながら普段どおりで何故だか安堵する。

「普段どおり」
それでいい。
何も変わらないのだ、これからも。
変わる必要などないのだ。

窓の外は相変わらず青い空が広がっている。
悠理は、こんな日は遠出するのが一番だと思った。
彼の男が海が良いといったように、青空にもその同じ力はある。
何も考えず、この空を見上げられる場所に行こう。
悠理は、気持を切り替えると、戸棚を勢いよく開けた。
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