「ベゴニア」
白い小さな紙を見つめる清四郎の前で、悠理はどう言い訳しようか、俯きながら頭をフル回転させていた。
試験が終り全ての結果が一枚の小さな紙になって返ってきた。
その結果は・・・。
赤点はなかった。しかし、全てがギリギリ。
清四郎の説教を間違いなく聴く事ができる点数であった。
「あ、あのさ・・・。あたいも、頑張ったん・・・だぞ?」
「えぇそうですね」
清四郎は、呆れた様に溜息をつくとその紙を悠理に返した。
「よ、良かったじゃない。赤点はなかったんだし。悠理にしちゃ上出来よお」
見かねたのか、可憐がフォローするように言った。
「そうだよ、悠理頑張ってたよね。赤点無しはすごいと思うよ」
清四郎に見下ろされ、しょげている悠理に同情した美童も慌てて取り繕う。
「ま、終った事を今更あれこれ言っても仕方ないですからね。でも、次もこんなんじゃ・・・わかってますね」
悠理は大きく二三度縦に首を振ると、手の中にあった小さな紙を握りつぶした。
その様子に清四郎はもう一度大きく溜息をついた。そして、テーブルに置いてあったカバンを手にする。
「じゃ、僕は今日これから予定がありますから」
「え?いいのか?」
「何がですか?」
きょとんとする清四郎に悠理は慌てて首を横に振った。
「な、なんでない!」
どうやら御説教はないらしい。
失礼、と言ってあっさり生徒会室を出ていく清四郎を五人は拍子抜けしたように見送った。

「良かったですわね、悠理。今日は何も言われなくて」
「あぁ、あたい何言われるかと思ってドキドキしてたんだけどな」
悠理は呆気に取られつつもほっとした様に言った。
「その結果が返って来た時のお前の顔、すんげー蒼くなってたもんな」
「だってまさかこんな点だとは思わなかったんだよ」
「なぁに〜?多少は、自信あったわけ?」
可憐がからかうように、悠理を見た。
「説教なしレベルぐらいはできてたと思ったんだ。なんせ、テスト前から地獄の猛勉強やらされてたんだからな」
悠理は思い出したのかうんざりしたような表情でくしゃくしゃになった紙を見た。
「ま、ともかく、これで試験の事は完全に終ったわけだし。今日はみんなでパーッと騒がない?」
身を乗り出し妙に張り切っている美童に野梨子が驚いた様に言った。
「珍しい事。美童、今日はデートじゃありませんの?」
その言葉に美童がぐっと詰まる。
「さっきキャンセルされたのよね〜」
「か、可憐!!」
デートの約束をキャンセルされている電話を、偶然聞かれてしまっていた美童は真っ赤になって可憐に詰め寄った。
「まぁ、それは御気の毒です事」
フフッと笑う野梨子の横で魅録も可笑しそうに言った。
「なんだよ、じゃぁ試験がどうこうよりそっちでうさ晴らししたいだけじゃねーか」
「煩いなぁ!イイだろ、騒ぐ理由なんてさ!」
美童はぷいっと横を向くとフンッと鼻を鳴らした。
「まぁそうよね〜。清四郎はいないけど久しぶりにみんなで騒ぐのもいいわね」
「イイですわね」
どうやら話は決まったようである。
だが、悠理は少し考えるように視線を上げるとカバンを手にした。
「あたい、イイや。今日はこのまま家帰る」
「今日は雪でも降るんじゃありません?美童が振られて、悠理が遊びに行かないだなんて」
野梨子は口元に手を当て、驚いたように言った。
「野梨子!僕は別に振られたわけじゃないんだからね!ただ彼女、今日は都合が悪くなったってだけなんだ!」
「今日は」という処に力を込める美童に、可憐はあしらうかのように手を払った。
「ハイハイ、わかったわよ。それより、悠理、どうしたのよ。せっかく清四郎の御説教もなかったんだし、イイじゃない」
「ん〜・・・。なぁんか今日はそんな気分じゃないんだよな〜」
悠理は自分でもよくわかっていないのか、ポリポリと頭を掻くと不思議そうに言った。
「風邪でもひいたんじゃねーのか?」
「そんなんじゃないと思うぞ?」
悠理は首を傾げると、ドアに向った。
「じゃな」
「気が変わったら携帯に連絡しなさいよ」
可憐の言葉に後ろ手に手を振って答えながら部屋を出ていった。


―――清四郎が「僕の」、悠理が「清四郎の」という部屋が二つある。
一つはもちろん菊正宗邸の清四郎の部屋。そしてもう一つは剣菱邸内にある清四郎の部屋。
ここは以前、ふたりが婚約していた時に清四郎が使っていた部屋である。
だが婚約がうやむやになってからもその部屋は、何故か「清四郎の部屋」として剣菱家の住人にごく当たり前に扱われていた。
当の本人も悠理の試験勉強で泊まり込むときに利用したり、普段からも書斎代わりに使う事があるようだった。

悠理は学校から帰ると、自室でなくこの部屋に直行した。
なんだか先ほどの清四郎に物足りなさを感じているような、なんとも言えない気分だったのである。
ここに来たからといって、その訳のわからない気持ちが晴れると言うこともないのだろうが、なんとなく『清四郎』を感じたかった。

一応ノックを試みる。
だが、試験も終り更に予定があると言っていた清四郎はやはりいるはずもなく。
当然のように返事のない部屋のドアをそっと開けた。
部屋に入りドアを閉めると、中を見渡す。
机の上にはノートパソコン。壁に備え付けられた大きな書棚にはぎっしり本が詰まっている。
偶にしか利用しないと言うのに、そこは清四郎の匂いがした。

「あれ?」
隣のベッドルームへ続く扉が僅かに開いている。
悠理はそのドアを開け中を覗きこんだ。
「せいしろー、いるのかぁ?・・・へ?」
ベッドの上に制服とカバンが投げ出すように置かれているのが目に入った。
悠理はそれに近づき、まじまじと見つめた。
「アイツ、こっちに来てるのか?でも、なんで制服?」
ここに制服があると言うことは清四郎は何か別のものを着ている事になる。
もちろんこの部屋のクローゼットには、会長職を代理したときに用意されたスーツや私服がまだ何着か置いてあったはずだ。
だが、今それをここで着て行く必要がどこにあると言うのだろう。自宅にだって何着もスーツを持っているはずだ。
しかも制服もカバンもベッドに無造作に置かれたままである。清四郎の性格からすればきちんと片付けてから出かけそうなものなのだが。

(もしかして・・・)
悠理はこのベッドルームにあるもう一つの扉の前にそっと足を忍ばせた。
だが、予想は外れそこから聞こえてくると思っていた水音は聞こえなかった。
「シャワーでもないのか・・・」
悠理はベッドに腰掛け制服を手にした。
「なんだよ。こっちに来るなら一緒に帰ってこれたのに・・・」
例え、約束があったとしてもここに帰ってくるのであれば自分に一言あっても良さそうなものなのに、悠理はそう考えむっとしたように仰向けに寝転がった。

制服の上着を両手で掲げ、改めて見る。
「アイツって結構大きいよな」
そのまま両手を離し、ばさっと身体で受けとめた。
自分の身体を簡単に覆ってしまうその制服に包まりニヤリと笑う。
「暖かいじゃん」
先日コートを借りたときも思った。
なんだか無性に気分が弾む。
悠理は両膝を抱えるように身体全体で包まった。


「・・・・・・・・・・」
頭が僅かに下がり、髪に何かが触れた。
誰かに何かを言われた気がして、悠理は瞼をゆっくり開けた。
ほの暗い視界の中に光に照らされた人影が見えた。
「起きてしまいましたか」
「え・・?」
ベッドに腰掛けた清四郎がワイシャツ姿で微笑んでいる。
悠理は何度か瞼をぱちぱちと上下させ、ゆっくり起きあがった。
その拍子に体に掛かっていた制服がずり落ちる。と、同時にもう一枚何かが滑った。
「あ」
「フトンを掛けてやろうにもベッドの真ん中で眠っていたのでね」
スーツの上着を手繰り寄せる悠理に困ったように微笑みながら言った。
上着だけでなく、ちゃんと暖房も入っていたので羽織るものがなくて寒いと感じたのはほんの一瞬だった。

隣へと続くドアが開いている。光りの正体は隣の部屋の明かりの様だ。
「それにしても驚きましたよ。部屋に戻ってきたとき、ここのドアが開いていたので覗いてみたら、悠理が猫みたいに真ん丸くなって眠ってるし。・・なんで、こんなトコで寝てたんです?」
「うっ、それは・・・。そ、そんなことより、ビックリしたのはあたいの方だよ。なんで、お前こっちに帰ってきてんだよ。オマケにそんな格好までして」
徐々に頭がはっきりしてきた悠理はどこか拗ねたように言った。
清四郎はそれには答えず、立ちあがると入口にある部屋の電気を付けに行った。
眩しさに目が眩む。
悠理は腕で目を隠すと、顔をしかめた。
「食事の用意が出来てますよ。その格好で寝ていたと言うことは学校から帰ってすぐ寝入ったんでしょ。もう九時を回っています。食べてきたらどうです?」
「え!もうそんな時間なのか!?」
慌ててベッドサイドの小さな時計に目をやる。五時間近く眠っていたらしい。
「五代も心配してましたよ。悠理がいないってね。早く行って安心させてあげてください」
「お前は?飯」
悠理はドアまで来ると、入口の横に腕を組んで凭れている清四郎を見上げた。
「僕は外で済ませてきましたから」
「外で?」
「えぇ、言ったでしょ。約束があるって」
「あぁ・・・。だけどなんで、うちで着替えてったんだ?」
「ちょっとここにも用事がありましてね」
悠理は稼動しているパソコンを見た。
「あれか?」
「あれもそのうちの一つです」
清四郎は意味ありげに言うと、悠理の背中に手を添えた。
「さ、さっさと着替えて食事に行って来て下さい。お腹空いてるでしょ」
「う、うん・・・」
清四郎が何かを隠しているのはわかるのだが、こんなときは何を言っても絶対に言わないであろうことも知っている。
悠理は釈然としないながらも、微笑みながら部屋を追い出そうとする清四郎に、それ以上何も言えなかった。
「ちゃんと着替えるんですよ」
「わーってるよ。・・・・・・な、お前まだいる?」
部屋の外に出て、自室に戻りかけた足を止め振り返る。
「いえ。そろそろ帰りますよ」
「なんだ、そっか」
悠理は残念そうに呟くと、じゃな、と言って振り返ることなく自室に戻っていった。

後姿を見送った清四郎はしばらくの間、壁に凭れ疲れたように瞼を閉じた。
花言葉「愛の告白・片思い・ていねい・親切・幸福な日々」
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