「カカリア」
土曜日の深夜、と言うにはまだ少し早い午後11時。
清四郎の部屋には、悠理の唸り声とカリカリというシャーペンの走る音、そして、パラ、パラと薄い紙――小説の頁を捲る音が規則的にしていた。

暖房で暖まった部屋の窓は外気との差で白くなっている。
清四郎は小説を置くと、立ち上がり窓を少し開けた。
「なにすんだよお!寒いだろ!」
途端に感じた冷気に悠理が自分の身体を抱きかかえるように、叫んだ。
「換気ですよ。偶には換気もしないとね」
清四郎は窓辺に凭れ腕を組むと、珍しく申し訳なさそうに言った。

いつもの如く試験勉強に拘束されている悠理は、週末の今日は泊まりこみである。
試験前から試験が終るまでの2週間、ふたりが菊正宗邸と剣菱邸を行ったり来たりするのはもはや恒例となっていた。

「もうイイだろっ!寒いから早く窓閉めろよー!」
「仕方ないですな」
窓を開けてから一向に進まないシャーペンに清四郎も仕方ないと窓を閉めた。
「ふ〜。暖かい。・・・暖かいとさぁ・・・。腹減らない?」
「減りません」
清四郎はにべもなく言い放つとまた、小説を手にした。
「お腹空いたーー!!腹減って頭動かない!」
「さっき、お菓子を食べたトコでしょうが」
「でも、頭使ったらまた空いた!」
「その体はどういう構造になってるんでしょうかねぇ」
「腹減った、腹減った」
悠理はシャーペンを放り投げ、清四郎に懇願するように縋りついた。
清四郎の言う通り、先程おやつを食べたところだったので、いくら悠理の食欲でも大してお腹が空いていたわけではない。だが、朝から続く試験勉強に嫌気が差していたのだ。

「わかりました。―――多分下にはもう何も食べるものはなかったと思いますから、コンビににでも行って何か買ってきますよ」
あまりにうるさい悠理に根負けしたのか、冷蔵庫の中身を思い浮かべて言った。
「えー、コンビニならあたいも行く!」
「行かなくてイイ。その間に何問か解けるでしょ」
問題集を指でコンコンと叩き、立ちあがる。
クローゼットの中からコートを取りだし、着こんだ。
「僕が帰ってくるまでちゃんとやっておくんですよ。出来るまで、何もあげませんからね」
「あたいも行くって!」
清四郎の言う事など全く聞いてないのか、さっさとノーとを閉じている。
「ダメですよ。第一、その格好で行くつもりですか?」
清四郎はマフラーを巻きながら、悠理の服装を見てニヤリと笑った。
悠理は何ら普通の服装であった。もちろん、悠理の「普通」であるが。
しかし、それだけ、なのである。
車で菊正宗家に来た悠理はコートなど羽織ってこなかったのだ。
いくら悠理が健康の代名詞とは言え、コートもマフラーもなしで表に出すわけにはいかない。
だが、上手く言いくるめたと思った清四郎に悠理はあっさり言い返した。
「お前のコート着てくからイイ」
「はい?」
「なんか、あるだろ。あたいも着れそうなヤツ」
悠理はそう言うと、たった今閉めたばかりのクローゼットを開けた。

「ほら、あるじゃん」
悠理は嬉しそうにその中から一枚のダッフルコートを取り出した。
「悠理には大きいでしょ」
「そんな事ないって」
悠理はそれを着こむと、前をきっちり合わせた。
「うん、暖かい暖かい」
どう見てもだぶだぶではあったが、満足そうな悠理に呆れると、自らの首に巻いていたマフラーを外し、その細い首に巻きつけた。
「なにすんだよ!」
無遠慮なその巻き方は悠理の顔半分を隠してしまっていた。
マフラーをずらして「ぷはっ」と息を吐く。
「ここまできて風邪ひいちゃ、元も子もないですからね」
清四郎は首まで下げられたそのマフラーをもう一度口を隠すように直した。


「ひゃぁ〜、やっぱ寒いなぁ」
両手をポケットに突っ込み、飛び跳ねるように歩く悠理の後ろを苦笑しながら清四郎はついて行った。
「悠理、もう遅いんですよ。静かにしてください」
住宅街の中は街の中と違って静寂に包まれていた。
「ッと・・」
悠理も自分の声が響いた事で気づいたらしい。
程なくして並んだ清四郎とともに、素直に大人しく歩き出した。
「なぁに、買おっかなぁ」
マフラーに顔を埋め、くぐもった声。
だが、嬉しそうなのがそれでもわかる。
「あんまり、お腹一杯にすると逆に眠くなりますからね。程ほどにしてくださいよ」
「わーってるって」
本当にわかっているのかどうか、返事だけは素直だった。


「あと肉まんとあんまんとピザまんな」
清四郎の手にしているコンビニのカゴにはお菓子と飲み物が山のように詰まれていた。
「まだ食べるんですか?」
呆れた様に言っては見るものの、悠理の食欲を知っているだけに買わない事はないらしい。
「肉まんは帰りながら食べるんだよ。・・・おっ!」
雑誌の並ぶ棚の前で不意に足を止めた悠理。
賑やかな表紙の雑誌を手に取り、パラパラとページを繰り出した。
お目当てのページをみつけたのか、雑誌から顔をあげない悠理に、清四郎もその中身を覗き込んだ。
「何か面白い記事でもありましたか」
「ディズニーランド特集〜!!」
そこにはディズニーランドとシーのアトラクションやお土産物が特集記事となっていた。
「なぁ、また行こうぜー」
雑誌を手に、清四郎を見る。
「試験が終ればね」
明日にでも行きたいと言い出しそうな勢いの悠理に、釘を刺す。
「絶対だぞ!」
「ハイハイ」
「んじゃ、これも」
悠理はその雑誌をカゴに入れると、にっこり微笑んだ。


「あれ、野梨子んとこ、誰か来たのかな」
菊正宗家の隣家に黒塗りの高級車が止まっていた。
「誰か来たと言うことはないでしょ。時間も時間ですし」
清四郎の言葉通り、来客ではなく車から降り立ったのはその家の令嬢であった。
「野梨子!」
悠理が声をかけ、駆け寄る。
「あら、悠理、清四郎・・・」
野梨子は日付も変わろうという時間の友人の突然の登場に些か驚いているようであった。
「こんな時間にどうしましたの?」
「清四郎と夜食の買出し行ってきたんだ」
「やぁ、野梨子」
「清四郎・・・。試験勉強ははかどってますの?」
野梨子の言葉に、清四郎は顔をしかめた。
「なかなか思うようにいかなくってね。それより、珍しいですよね、こんな時間に」
「えぇ、母様に付き合ってお茶の集まりに出ていたんですけど、まだまだ長引きそうで・・。私だけ先に失礼してきたんですわ」
「それは大変でしたな」
同情するように、はにかむ清四郎に野梨子も似たような笑みを返した。
「じゃぁ、おばちゃんまだそいつ等に掴まってんのか」
「えぇ、母様も大変ですわ。お相手には無下にできない方もいらっしゃったし」
野梨子はほぅっと溜息をつくと、思いついたように悠理を見た。
「そう言えば、悠理。そのコート」
「え?あぁこれ、清四郎のだよ」
「そうですわよね。どこかで見たことがあると思って」
野梨子は複雑な笑みを浮かべると、首から顔に巻きついているそのマフラーに触れた。
「これも・・苦しくありませんの?」
「だってコイツが・・」
清四郎の顔を睨む。
「ここで風邪をひいてもらうわけにはいきませんからね」
しれっとした顔で、言った。
「そうですわね。これまでの苦労が水の泡ですものね」
野梨子はそう言うと、自らもコートの前をぎゅっと掴んだ。
「もう、家に入りますわ」
「そうだな、こんなトコで喋ってんのもな。清四郎、あたいらも早く帰ろうぜ」
「そうですな。それじゃ、野梨子。おやすみ」
「えぇ、おやすみなさい、ふたり共・・」
「お休み〜」
ふたりは野梨子が門の中に入っていくのを見届けると、自分たちも温かい場所へと急いだ。


「なぁ、野梨子、なんか変じゃなかったか?」
部屋に入るなり、悠理は清四郎に訊いた。
「変?野梨子がですか?」
清四郎は首を傾げると、コンビニの袋からお茶入りのペットボトルを取り出した。
「んー・・・。なんか元気なかったかなぁと思ってさ」
「疲れてたんじゃないですか?おばさんの関係の集まりなら気を使う事もあったでしょうし」
「それでかなぁ・・」
悠理はいまいち納得できていなかったが、また机の前に座ると、お菓子を一つ封切った。


最初の音に、ボリボリという音が加わって数十分経った頃。
清四郎がトイレから戻ってくると、机の前に悠理の姿はなかった。
「またやられた・・・」
席を立ったほんの数分の間に、悠理は清四郎のベッドでスヤスヤと眠り込んでいた。
「確信犯ですな」
机に向ってうたた寝というのではなく、ちゃんと肩までフトンをかぶって寝ている。
試験勉強の度に何度こうしてベッドを占拠された事か。
「男のベッドでどうしてこう易々と寝られるんだ」
清四郎は溜息をつきベッドに浅く腰掛けると、暫しその寝顔を見つめた。
伸ばしかけた腕に気付き、途中で止めると、思いきるように立ちあがった。
「今日サボった分、明日は倍でやってもらいましょうかね」
その呟きに、悠理の肩がピクリと動いた。
「明日が楽しみですねぇ」
清四郎はニヤリと笑うと、部屋を後にした。
花言葉「秘めたる恋・技芸」
壁紙:葉っぱの岬