「フリージア」
いつものように、慣れない試験勉強に疲れ机に向かったまま眠ってしまった悠理をベッドに運んだ清四郎は、しばらくその寝顔から離れることができずにいた。
意を決して立ち上がり部屋を出ると、まるでそこに想いを閉じ込めるかの様に、扉を閉めた。
悠理の兄、豊作に声をかけられたのはそんなときだった。

「清四郎君」
「どうも。こんばんわ、今お帰りですか」
スーツ姿の豊作は、ネクタイを少し緩めていた。
「そうなんだ。今取り掛かっている仕事がちょっと厄介でね。そっちは?今日はもう終わりかい?試験勉強」
「えぇ、悠理が寝てしまったので」
いつも遅くまですいません、清四郎は申し訳なさそうに笑顔を作ると豊作に詫びた。
「よしてくれよ。むしろ謝るのはこちらの方だよ。いつも君には面倒ばっかりかけてしまってるからね」
人のいい笑顔で、ちらりと妹の部屋に視線を送りながら言った。
「今日はこっちに泊まっていくんだろ?」
「そうさせていただきます。これから帰るのも、なんだか億劫で」
「そうだね・・・」
豊作は少し考えるように間を開けると、もう一度悠理の部屋を見た。
「清四郎君」
「何でしょう」
「今から少し僕に時間をくれないかな」



清四郎はこの時受けてしまった豊作の「試験」を後悔しているつもりはなかった。
だが、先程のようにあまりに無防備に近付く悠理に感情を抑えることが難しくなっていることにも気付いていた。
豊作の言葉が、頭に響く。



「―――あんなヤツでもね、僕にとっては大事な妹なんだ。世間ではこんなのシスコンだと笑われるのかもしれないけど、こうも歳が離れているとね。なんだか父親みたいな気持ちになってしまって」
清四郎は照れたように頭の後ろに手をやる豊作に、眼を細めた。

彼の気持ちはわからないでもなかった。
剣菱家の跡継ぎとして生まれ、その優しい性格ながらも幼い頃から帝王学を叩き込まれた彼にとって、無邪気に懐く悠理は疲れた心を癒す暖かな光だったのではないだろうか。
まさに清四郎にとって、初め悠理はそういう存在だったのだ。
いつの間にか友人や家族との間にも一線を引くようになってしまった自分に、そんな線など見えてなどいないかのように簡単に入り込んできた悠理。
それを不快とも思わず、ごく自然な事に感じる自分がいた。
そして、そんな悠理の存在が次第に、大切になり、愛しくなった。

「アイツも今はまだ、散々遊びまわって好き放題していられるけど、いつかは結婚して家庭をもつだろう」
「そうですね」
清四郎は否定も驚きもしなかった。
悠理の結婚。いや、むしろ結婚という物にこだわらなくとも、悠理と共にこれから先を生きていく相手は、誰あろう自分でありたかったのだから。
「悠理の事・・・・・・」
豊作は言葉を切ると、清四郎を見つめた。その顔は、すでに答えがわかっているものだった。
普段は頼りない印象しか受けないこの好人物も、ただの兄としては自らシスコンと称するのも頷けるほど強い意志を感じる。
「ご承知のとおりです」
少しだけ紅味のさした清四郎を、豊作は満足そうに瞳を和らげた。
「ありがとう。悠理を大事に想ってくれて。僕も、君になら安心して悠理を任せられるからね」
「そう仰って頂けるのはとても嬉しいのですが・・・。どうやら僕は悠理には男だと思って貰えていないようでして」
「そんな事もないと思うけどね」
寂しそうに笑う清四郎に、同情気味に、アイツはそういうのちっともわかっていないから、と小さく呟いた。
「でね、清四郎君。ここからが本題なんだけど」
「はい」
身を硬くする。
「実は悠理に縁談話が来ているんだ。それも一件や二件じゃない、八件だ」
「縁談・・・ですか・・」
「相手は皆、うちの要職についている人間の息子さんたちなんだ。どうやら、将来の剣菱を背負ってたつのが僕では不安らしくてね。自分の息子を悠理の婿にして、うちを手に入れたいらしいんだよ、全く・・・情け無い話だけどね」
豊作は、哀しげに言った。
「豊作さん・・・」
清四郎はなんと声をかけて良いのかわからなかった。だが、それに気付いた豊作は逆に申し訳なさそうな顔をした。
「いや、悪いね。こんな話を突然」
「いえ・・・」
「でも、君にも関係が無いわけでは無いんだ。さっきも言ったとおり、僕は悠理の相手は君であって欲しいと思っている」
「でも、僕たちは」
「待ってくれ」
自分たちはそんな関係じゃない。そう言いかけた清四郎を、わかっているとばかりに豊作はとめた。
「君たちは、まだ付き合っていない。それは重々承知しているんだ。だけど・・・」
言いにくそうにちらりと上目遣いでみる豊作は、さすが兄妹と思えるほど、都合が悪くなったときの悠理と似ている。
「なん、ですか」
「その縁談を持ちかけられたとき、とっさに君の名前を出してしまってね。悠理には将来を誓った人がいるって・・・」
「ほ、豊作さん!!」
「ゴメン!君にはすまない事をしたと思ってる。だけど、少なくとも君は、うちの事なんか関係なく悠理を想ってくれているんだろ?」
豊作は両手を顔の前であわせ、まくし立てるように言った。しかし、清四郎の返事で表情が変わる。
「え、ええ」
「だったら、しばらく僕に付き合ってくれないか。悠理を守るため」
急に真剣な表情になった豊作は、清四郎の顔を試すように見つめた。
「悠理を、守る?」
「連中は条件を出してきた。彼らは君の事をもちろん知っているからね。君が父さんの代理を務めたときの結果に彼らは相当悔しがっていたしね」
ほんの僅かな期間ではあったが、清四郎が携わった事業は全て、成績がよくなっていたのだった。
「君が、うちのある企業の建て直しを成功させることができたなら、自分たちの息子との縁談は諦める、と」
「建て直し、僕がですか?」
「君はまだ、高校生だ。無茶な話だと僕も思う。だけど、会長代理を務めた君も高校生だ。反論できなかったよ」
豊作は疲れたように、首を振った。
「どうして、そこまで僕にこだわるんですか。縁談と言っても悠理が断れば、それで済む話では?」
「自信ないかい?」
「そうではありません。だけど・・」
「確かに。悠理が嫌だと喚けば何とかなるのかもしれない。だが、これからもずっとこんな事は続くんだと思うんだ。その時、今みたいに嫌だの一言で済めば話は簡単なんだけどね」
「そうはいかない、と?」
「無論将来の話だよ。この不況だ、いつうちもこの間みたいに合併しなければならなくなるかもしれない。そしてそれがただの合併だけに留まればそれはいいんだけど。・・・もしうちの立場が弱かったとしたら?」
「悠理、ですか・・・」
悠理と結婚し、剣菱財閥を一挙に手に入れようと考える輩がいたとしても不思議ではない。
政略結婚、大企業になればなるほど今もそんな古臭い戦法が残っているのは信じがたい事実だった。
しかし、会社ひとつを乗っ取るにはその家に誰かが入り込む、それが一番手っ取り早い方法であるのは否定できなかった。
「父さんは絶対にそんな事はさせないよ。でも、悠理はあれでちゃんと家の事を考えているところがあってね。自分で済むのなら、と言い出しかねない。だけど、僕は悠理には好きな人と一緒になってもらいたいんだ。うちの犠牲になってもらいたくない」
「でも、僕ではっ・・・」
「悠理を想ってくれる君を利用する様で本当にすまないと思う。だけど、今後のためにもここで悠理にはきちんと剣菱を任せられるぐらいの相手がいることを誇示したいんだ。そういう邪まな野心を持たさないためにもね。それには君の力量が必要なんだ」
「豊作さん」
「悠理と君が今後どんな風に歩んで行くのかはわからない。それは君たちだけの問題だと思うし。だけど、今回の問題は君に解決してもらいたいと思う。僕の我侭かもしれないけどね」
真っ直ぐ見つめる豊作に、清四郎は膝の上で拳をグッと握り締めた。
「悠理は、知ってるんですか。縁談の事」
「いや、何も言ってないよ」
「なら、もうしばらく伏せておいてください。僕の事も」
豊作を見据え、静かに言った。
「やってくれるかい?かなりの時間を拘束されることになるかもしれないんだけど・・」
「全力を尽くします」



「問題は、あとココだけか・・・」
清四郎はディスプレーに映し出されたグラフと、手元の書類を見比べ結論を出した。
豊作の話では、もっと困難を極めそうだった会社の建て直しも、早くもこの2週間の間に大分いい兆しを見せ始めている。
清四郎はまさかこんなに早く結果が出るとは思っていなかった。
(重役たちは何を見ていたんですかねぇ。これぐらいなら、自分たちでやればこんな時間はかからないと思うんだが・・・)
いくら清四郎の能力が並外れて長けているとはいえ、所詮は素人である。長年その企業に携わった内部の人間が見直せば建て直しなどという大げさな話にまでなるような経営状態ではない。
豊作の秘書と言う肩書きで、その会社に潜り込んで色々と内部事情も調べてみた。
もちろんこんな短期で何がわかるという訳ではなかったが、逆に何もないという気すらして来ていた。
こんな事ぐらいで、重役たちは本当に悠理を諦めてくれるのだろうか。
そう思わずにはいられないほど、呆気ない作業だったのだ。
(本当に僕は彼等に試されているのだろうか―――)
だが、たとえその作業の難度が低かろうと、それで悠理をとりあえずは失わなくて済むのなら、何も自分から余計な事を言う必要はない。
与えられた「試験」に挑み、解決させる。
それだけで、いいのだ。

悠理は誰にも渡せない。
しかし、立場的には重役の息子たちと自分は同じなのだ。
彼らは悠理の家柄に恋焦がれ、自分は悠理に焦がれている。
だが、悠理の気持ちは・・・?
豊作は、味方してくれている。しかし、剣菱の名の大きさを、誰よりも心得ている悠理はいざとなったら自分自身の感情などあっさりと捨てるだろう。
―天真爛漫に、感情の赴くままに―
そう見えているのは悠理のほんの一部分にしか過ぎない。
本当は誰よりも繊細なのだ。
そんな悠理に惹かれた。
いつもとは違う、時折見せるそのギャップに惹かれた。
笑顔も、泣き顔も、怒った顔も、全てが愛しい。

(悠理は僕の事どう思っているんだ)
先程、無防備な寝顔に思わず触れてしまった。
自分のベッドにうずくまるように眠る好きな女を見て、何もしないでいられる男がどれだけいるだろう。
いっそ、あのままこの腕に抱きしめてしまえば。
いっそ、あのまま口付けてしまえば。
悠理は自分のモノになっただろうか・・・。
(バカな!―――嫌われるのがオチですな・・)
清四郎は肩を落とし、背凭れに身体を預けた。
自分でもわかっていた。
易々と懐に入り込んでくる悠理にたった一言を言い出せないのは、今の関係が壊れてしまうのを恐れているからだという事に。
"もしかしたら"という期待がないわけではない。
だが、それは自分の思い違いである可能性が高い。
淡い期待など、そうあって欲しいという願いが見せる幻のようなものだ。
清四郎は、悠理への想いに気付いて初めて、自分が臆病者であることを知った。

一息ついて、パソコンの電源を落とす。
うん、と伸びをした。
―――コトリ
「ん?」
廊下で物音がした気がする。
(誰か、通ったのか?)
だが、清四郎はなぜか気になった。
ドアに触れてみる。
やはり人の気配がした。不意に胸が締め付けられるような錯覚を覚える。
「・・・悠理・・・?」
「あ、せ、せ、せいしろ・・・・」
ドアの向こうから、焦っているような悠理の声が聞こえた。
「どうか、しましたか?」
清四郎はドアを開けることなく問いかけた。
「えと、その・・・・。ちょっと、気になって・・・」
「何がです?」
「お前・・・、怒ってる?」
「僕がですか?」
「あぁ」
「どうして、僕が怒ってるんですか?」
(―――どうして、僕はこのドアを開けないんだ)

「あたいが、勝手にお前のベッドで寝ちゃったから・・・」
「そんなのいつもの事でしょ」
(そうだ、いつもの事。悠理にとっても僕にとっても)

清四郎はどうしてもそのドアを開ける事ができなかった。
開ければ、目の前に悠理がいる。
きっと怒られると思って気を病む悠理がいる。
開けてしまえば、そんな悠理を抱きしめてしまう自分がいる。
きっとその姿を見るだけで、抱きしめずにはいられない自分がいる。
もう、自分を抑えることができなくなるのがわかっていた。

(参ったな・・・)

清四郎は、まさかココまで自分が悠理を必要としているとは思っていなかった。
こんなに悠理が必要だったなんて。

「わかった・・・、怒ってないなら、良いんだ・・・」
「あぁ」
「うん・・・。オヤスミ・・」
「オヤスミ」

――――――――。



清四郎は、堪らずドアを開けた。

足元に、
真っ赤な目をした悠理がいた。





「お、おい!清四郎!!」
目が合ったなりいきなり崩れ落ちるように膝まづいた清四郎の顔を悠理は慌てて覗き込んだ。
「っく・・・・くっくっくっく・・・・」
暫くして、清四郎の肩が震えだし、やがて顔を上げて大声で笑い始めた。
「な、なんだ?どうしたってんだよ・・・」
悠理は何がなんだかわからなかった。
先程まで、胸が押し潰されそうに苦しくて、どうしても会いたくて、体が動かないほどに会いたくて堪らなかったその相手が、突然ドアを開けたかと思ったら急に脱力して笑い出したのだ。
最初はそんな清四郎に心配もしたが、なんだか段々腹が立ってきた。
「おい!清四郎!!なに笑ってるんだよ!人の顔見るなりいきなり笑い出しやがって!!」
悠理は清四郎の胸倉を掴むと、唾を飛ばしてまくし立てた。
清四郎はまだ笑いを含みながらも、その腕を掴んで、体を引いた。
「す、スイマセン・・・・くくくく・・・」

こんなに、苦しくて、悠理に会いたくてたまらなくて、やっとの思いでドアを開けたのに。
清四郎は悠理を見つめると、その体を躊躇うことなく抱きしめて、頭をぽんぽんと子供をあやすように撫でた。
「な!なにすんだよ!」
慌てて体を離そうとするのを、腕に力を入れてとめる。
「だって、まさかこんな恰好してると思わなかったんで・・・」
そう言うそばから、悠理の頭の上で、その耳はひょこひょこ揺れている。
ふと見ると、ちゃんと真ん丸い尻尾もついていた。
(さっきは猫で、今度はウサギですか・・・)

清四郎が堪らずドアを開けると、目の前に真っ赤な目をした、巨大なウサギがうずくまってこちらを見上げていたのだ。
悠理は真っ白いふわふわのウサギさん着ぐるみパジャマ姿だったのだ。
そのあまりの光景に、張り詰めていた気持ちが一気にやわらかいモノになってしまった。
もし、悠理が普通の恰好をしていたら・・・?
きっと自分は何をしていたかわからない、悠理の気持ちなど考えず。

少し体を解放して目の前の悠理を見る。
「な、なんだよ」
穏やかに、嬉しそうに、自分を見つめる清四郎に、悠理の顔は言葉つきとは裏腹に赤みを帯びていた。
「いや、やっぱり、お前はお前だなと思って」
「はぁ?」
かぶっている耳付きのフードからはみ出た前髪を掻き揚げてやる。

何を勝手に焦ってたんでしょうねぇ、僕は。
もう少しで、自らの手で悠理を失うところだった。
確かに、愛しさが抑えきれない。
だけど、目の前に悠理はいる。
臆病者でもなんでもいい、今はまだこのままでいたい。

「ねぇ、悠理」
「なんだよ」
「これからもずっとそのままでいてくださいね」
「はぁ?」

―――失いたくないんだ
花言葉「あどけなさ・無邪気・純潔・慈愛・親愛の情・親愛・清香」
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