「ガーデニア」
いつもより少し早い時間。だから、なのだろうか。
車の流れも車窓から見える景色も、いつもと同じようでいて、なにかが違うと悠理は感じていた。
清四郎に会いたくて、たまらなくて、家を飛び出してきた。
しかし時間というものは有難い物なのか、恐ろしい物なのか。清四郎へのあの執着とも言えるべき混乱した心は徐々に、鎮まりつつあった。
外の雰囲気がわかるようになったのも、だいぶ落ち着きを取り戻した証拠なのだろう。
学校で会えたら何と言ってやろうか、清四郎はそんな自分に呆れるだろうか、焦るだろうか、色々想像し、少し笑えるようになっていた。
そんな風に少し、笑った時だった。
「止めて!」
悠理は咄嗟に叫んだ。
反対車線のそのまた向こうの歩道を、自分達が向かうのとは反対方向に走る彼の男の姿が人込みの中に一瞬見えたのだ。
「清四郎!」
車も止まりきらないうちからドアを開け、出ようとする。が、悠理が出ようとした方は反対車線の方、つまり車道側である。
「お嬢様!」
キュっという音をさせて車は止まったものの、悠理は座席越しに運転手に腕を捕まれていた。
運転手はミラーから見えていた悠理の反応に、剣菱家の運転手だからこその運転技術と反射神経のなせる業なのか、悠理の腕を掴む事と車を安全な場所に止める事を、同時にこなしていたのだ。
「お嬢様、お待ちください」
「でも!清四郎が!」
「大丈夫でございます、すぐに先の道でUターンいたしますから」
「でも……。ゴメン、そうだよな…ありがと」
悠理は項垂れながらも大人しくドアを閉めると、それでも名残惜しげに車の流れの合間から見える姿を目で追い続けた。



「やっぱりタクシーを捕まえたほうが早かったか・・・」
清四郎は人の波を掻き分けるように走りながら、この日何度目か忘れるぐらい見た腕時計をまた確認した。
時刻は、いつもの悠理の起床時間を少し過ぎた頃。
もう自分が邸内にいない事に気付いてるかもしれない。
混んだ道を車で走るより、自分の体力と脚力なら走ったほうが早いと考えたのだが、どちらにしても結果はあまり変わらないような気がしてきていた。
車道も確かに空いているとは言いがたいが、まだ進んでいる。だが、歩道はと言えば人の流れが真逆な為、その流れに逆らって走るのは必要以上に時間を食うのだ。
いつもの冷静さがあればそんなことにも気付けたのだろうが、今朝は"悠理の元へ戻る"、という事しか頭になく、一番最善だと考えたこの方法も今となれば、最悪だったと今になって漸く気付く有様だった。
「怒ってるでしょうなぁ」
しかしそう呟きながらも、怒っているのならまだいいと清四郎は更に表情を険しくさせた。「ずっと傍にいる」と約束しておきながら姿を消した自分に、怒ってくれているほうがどれだけ嬉しいか。泣かれでもしたらどうしていいかわからなくなるのだ。
悠理の涙脆さは以前から知っていたが、それが自分の為の涙となると話は全然変わってくるのである。
昨夜、散々泣かせたのだ。もうこれ以上、涙は見たくなかった。

「全く、どうして気付かれたんだか」
悠理ではない。姉、和子の事だった。
剣菱邸から朝帰りどころか、泊まったまま何日も家に帰らないことなどこの数週間当たり前のことだったのに、今朝に限って「何があったのよ」と妙に機嫌よく問い詰められたのだ。
帰ったら話すから、と説得するのに時間を取られ、着替えに戻るだけのつもりだったはずが大きく予定が狂ってしまった。
(帰って話したら話したで、またあの妙な笑顔で更に問い詰められるんでしょうなぁ。いっそのこと暫く剣菱で…)
そこまで考えて、清四郎は珍しく顔を赤らめた。
「冗談じゃない。そんな事したら本当に抑えられなくなる」
触れたいと思った女が触れられるとこに在り、そして彼女自身もそれを赦そうとしているのだ。
―――だが、まだ早い。
悠理はまだ、そこまで心の準備が出来てはいない。だからこそ、昨夜も抱かなかったのだ。
ある程度の流れは必要だが、かといって流れだけに頼るつもりもない。
自分達にはこれからいくらでも時間はあるのだ。
ゆっくりと、その時その時にしかできない時間をふたりで過ごしていければいい、それが清四郎の考えだった。

「清四郎!」
やっぱり怒ってる。
そう思って、はたと立ち止まった。
幻聴にしては、やけにハッキリと聞こえた。
追い越す人の流れが時折自分に当たって行く。が、その痛みなど感じなかった。
「このバカ清四郎!」
車道と歩道を分ける植え込みの向こうに、会いたくてたまらなかった姿があった。
「悠理…」
思わず時計を見る。
「なんだよそれ、嫌味か?」
笑っている声がいつのまにか、すぐ傍にあった。
「今からお前の処に…」
「清四郎の嘘つき、一緒にいるって言ったのに」
信じられないものでも見るような目の清四郎に、悠理は軽く拳をその胸にぶつけた。
そしてそのまま、凭れかかるように額を押し付けた。
「アホ、バカ。嘘つき〜。ずっと…ずっと…一緒にいるって言ったのに…」



咳払いが聞こえ、清四郎は顔を上げた。
道行く人々が自分達を迷惑そうだったり、興味深げに見たりしながら通り過ぎて行く。
我に帰り、清四郎は悠理の腕を掴んだ。
「悠理、ちょっとこっちへ来い」
悠理もここが往来のど真ん中だと言う事に気付き、顔を真っ赤に染めた。

ビルとビルの合間には人の流れはなく、少し暗がりで通りからも覗きこまない限りふたりの姿は、朝の急ぎ行く人々の目には止まらなかった。
「あまり雰囲気のある場所とは言えませんけどね」
「いいよ、お前がいれば」
赤くなった目ではにかむ悠理に、自然と目が細くなる。
だが、素直じゃないのが清四郎と言う人間なのだ。
「ほ〜。かわいいことを言ってくれますなぁ」
「バ、バカ!」
「僕も悠理がいればそれだけでイイですよ〜」
「信じられるか、この嘘つき!」
一転していつもの調子になってしまったふたりは、その事に気付き顔を見合わせると笑い出した。

「今度はもう許さないんだからな」
ひとしきり笑い合ったところで、悠理が清四郎の制服を掴みながら顔を見上げた。
昨夜から泣き通しだった悠理の目は、こうして改めて見てもやはりまだ腫れている。
その目が自分の為であり、そして今また自分を見つめているという事実が、清四郎には狂おしいほど刹那く愛おしかった。
「わかってる。悪かった」
清四郎はもう限界だった。
悠理の両頬を手で挟むと、性急に口付けた。
だが悠理も、慌ても拒みもせず、自ら清四郎の背に腕を廻し受け止めた。
清四郎の手が悠理の頭を包みこむ。
ふたりは息をするのも惜しいぐらいにお互いを求め合った。

漸く顔が離れ、互いの顔を見つめる。
いつのまにか溢れていた悠理の涙を唇で掬いながら、清四郎はあやすように頭を撫でた。
「これからはずっとこうしていられる。だから、もう泣かなくてイイ。僕はずっとお前の傍にいる」
「うん…。ずっと、ずっとな」
悠理はもっと温もりを感じたくて顔を清四郎の首筋に擦り寄せるように埋めた。清四郎もそんな悠理をきつく抱きしめ、その髪に頬を埋めた。
「あぁ、ずっとだ」
「ずっ・・・・・・」



ギュルルルルル〜〜〜。
それはまさしく、"異音"だった。

「ん?」
「あ」
体を離すと悠理が、でへへへと顔を引き攣らせ笑っている。
「その・・・さ、泣いたら腹減る、だろ?そ、それに、今朝、朝飯食ってないし…てか、そうだよ!朝飯食ってないのお前の所為なんだからな!!」
照れ隠しなのか、途端に詰めよってくる悠理に呆れながらも、清四郎は更にその身体を抱きしめた。
「な、なに!」
「いつも通りだな、と思ったんですよ」
見つめてくれる悠理も、素直な悠理も、甘えてくれる悠理も勿論イイ。
だが、今のこんな悠理が、「いつもの」悠理が、一番悠理らしい。
最近、自分の所為とはいえ、悠理が無理をしているのを知っていた。
だからこそ、こんな風にいつも通りになってくれたことが嬉しかった。
「愛してますよ」
ちゅっと音をさせて口付けると、きょとんとした後、悠理は「バカ」と一言呟いた。



「行くぞ!」
清四郎の手を引き、大通りへと向かおうとする。
「そうですね、遅刻ですよ」
肩を竦め、その後を歩く清四郎に悠理が勢いよく振り返った。
「なに言ってんだよ!その前に飯!!」
「ハイハイ」

ふたりが去った路地には、温かな風が吹きぬけた。
花言葉「とても幸せです・美しい日々・幸せでとても嬉しい」
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