「ヒギリ」
終わったのだと思った。

いつもの朝のように、隣に立った幼馴染を見て、野梨子は"終わった"と感じた。
それは一見、なんら変わりない朝の風景。
自宅の門を潜り抜け、ほぼ同時刻に家を出たのであろう幼馴染と朝の挨拶をかわす。
一目見ただけでその変化に気付いたのに、自分でも驚くほど冷静だった。

「今日も冷えますわね」
「今日はこの冬一番の冷え込みだそうですよ」
「先日もそんなこと言ってましたわね。この分だと"この冬一番の冷え込み"はこれから何度もありそうですわ」
「仕方ありませんよ、冬はまだ始ったばかりですから」

でも、そういう清四郎の冬は恐らく冷え込みなど跳ね返してしまうほど温もりに満ちたものであろう。
この冬だけでなく、これから先、幾度も巡るどの季節も。
清四郎とその愛する人はこれから"始る"のだ。
もうこうして清四郎が自分と二人で並んで歩くことは数えるほどになるだろう。
野梨子はそこで漸く、胸に痛みを感じた。
冷たい風を大きく胸に吸い込んだように。

「野梨子、悪いんだが今日は先に行っていてくれないか。少し寄る処があってね」
どちらへ?
と、訊かずともわかった。その表情で。
「わかりましたわ。遅刻しますの?」
「いえ、始業時間までには行きますよ」
白鹿家の前で立ち話をしていた二人は、「じゃ」と短く別れをかわすと正反対の方へと歩き出した。
野梨子は少し歩いた所で立ち止まり、後ろを振り返った。
時間を気にした風に小走りで遠ざかって行く背中は、もう自分の手の届かないところにある。
だがまだここで少し大きな声で呼べば、きっと振り返るだろう。
呼び止めて、想いを伝える。
そうすれば、どんな反応を見せてくれるだろう。
優しい幼馴染が、愛する彼女とは別に自分の事を大切に思ってくれていることを知っている。
どうしてもあなたが必要なんだと、縋れば受け入れてくれるのではないだろうか。
「せっ・・・!」
思わず呼び止めそうになった口を両手で塞ぐ。
言える訳がなかった。
本当は、苦しめこそすれ、受け入れて貰えるはずなどないとわかっている。
僅かに抱いていた、歪んだ、しかし素直な願いは、愛する人の元へ向かう幸せそうな後姿に、まるで雪の様に消えていった。

終わった、と思った。
辛くないといえば嘘になる。これから暫くはまだ辛い時もあるだろう。
ふたりが一緒にいる姿、互いが互いを想う姿は、きっと今までよりも胸が苦しくなるかもしれない。
でも、良かった、とも思う。
この先、どんな感情を抱えていく事になるのかは、わからない。
ずっと今の感情を大切にしていくかもしれない。
もしかしたら、またふわりと消えていく想いかもしれない。
それでも、ふたりが一つになってくれた事で、自分も新たな道を歩き出せる。
野梨子は眼を閉じると、大きく深呼吸した。
冷たい空気も気にならない。
クルリとした大きな眼を開ける。
そこに、憂いはもうなかった。
花言葉「幸せになりなさい」
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