「ホトトギス」
夏ならばともかく、この寒空の下こんな夜中の公園は怖いほど静かだった。
清四郎は、その小さな公園の入り口にある柵に腰掛け、真っ直ぐと、これから受け入れなければいけない現実を見据えるかのように、続く道を見つめていた。
その先の暗闇から、息急く音と、靴の音が聞こえる。
やがてはっきりと、いつも頭から離れることのなかった姿が現れた。

「またこんな恰好で…」
コートだけで手袋もマフラーもしていない。清四郎は自分のマフラーを外すと、走って紅くなった頬の悠理の首に巻きつけた。
「お前が寒いだろ」
外そうとするのを止める。
「悠理が寒そうにしているのを見るよりはマシですよ」
「じゃぁ、しゃねぇなぁ、しといてやるよ」
へへへっと、マフラーに顔を半分埋め笑う。
悠理のこんな無邪気な笑顔が自分に向けられるのは、今日が最後かもしれない。
清四郎は気付かれないようにぎゅっと拳を握り締めると、黙って公園の中へ歩き出した。
だから、気付いてはいなかった。
背を向けた瞬間、悠理の顔から笑みが消え、切なげにその後姿を見つめていたことを。


毎日のように、愛しい男が一つ屋根の下にいる。だけど会えない。
それがどれだけ、苦しいことか。
会えない距離でも会いたいと思っている人間に、会える距離にいても会えないのだ。
何度となく、悠理は清四郎の部屋の前に立った。
メイド達に怪しまれないように、偶然を装ったり、時には堂々と清四郎の部屋を訪ねたり。
それでも清四郎はいつも不在だった。
部屋にその温かみを残して、何処かへ出かけてしまっている。
帰ってくるのは深夜になることも多かった。
早く帰ってくることがあっても、部屋を覗けばいつもなにか机に向かっていた。
話しかけても、「疲れているから」「忙しいから」と、早々に追い出される。
すごすごと退散する時に振り返って見るのはいつも、悠理を突き放すかのような背中だった。
そんな時、清四郎との距離を感じた。
どうしようもない切なさが込み上げる。
今目の前を行く背中もまた、どこか遠くに感じた。


「―――でさぁ、そん時可憐てば…」
「悠理」
「なんだよ。でな、そこにあった椅子がさ…」
「悠理」
まくし立てるように他愛もないことを喋り続ける悠理を静かに制した。
「なんだよ、怖い顔しちゃってさ」
へへっと笑ってはいたが、その瞳は笑ってはいない。
会ってから今まで悠理は散々喋ったにも拘らず、一度も呼び出した理由について聞かなかった。むしろ清四郎が口を開こうとすると、それを遮るかのように次から次へと言葉を吐き出す。
わかっているのだろう、悠理も。
自分にとって不都合な話だと。
それでも、清四郎は重い口を開いた。
「悠理、言っておきたいことがあるんだ」
「なんだよ、改まっちゃって。あ〜わかった。そんな真剣な顔しても無駄だぞ。どうせまたあたいのことからかおうってんだろ。へへ〜んだ。いつもいつも騙される悠理様じゃないんだぞ」
悠理は「べーっ」と舌を出すと、まるでそこから逃げ出すかのように、清四郎から離れた。
清四郎の真剣な眼差しが怖かった。
足音が近付くと、悠理は両手を耳に当て、振り返りキッと清四郎を睨み付けた。
「……嫌だ、聞きたくない」
「悠理・・・」
「わかってるよ。わざわざ呼び出したりして、どうせ、ろくな話じゃないんだろ。そんな話、何も聞かないからな」
「悠理」
清四郎は、そっとその手を外した。
「嫌だ。最近のお前、変だ。絶対変!だから嫌だ、何も聞きたくない!」
先ほどまで、ころころと笑っていた悠理からは考えられないほど、駄々をこねる子供のようにイヤイヤと頭を振り、必死に抵抗した。
「大事な話なんだ」
「ヤダ!絶対ヤダ!」
「悠理!」
思わず声が大きくなる。だがそれは、どこか悲しげであった。
悠理の身体がびくりと揺れた。
「お願いですから……どうしても聞いてほしいんだ」
「嫌だ・・・・」
掴んでいる手に力が篭る。
悠理は、唇を引き結ぶと硬く眼を閉じて俯いた。


ここへ来てもまだ清四郎は、迷いがあった。
悠理が拒めば、もう自分は決してその目の前に現れることは出来ないだろう。
今の関係を崩すことがなければ、それは先延ばしに出来る。
だが、それもほんの僅かな間でしかないはず。
もう限界だった。
「悠理」
大きく息を吸い込む。
冷たい頬に手を滑らせ、そのまま抱き寄せた。
「―――――」


その言葉を伝え終えた時、悠理の身体が硬直したのがわかった。
やはり、言うべきではなかったのだ。
清四郎は、覚悟を決めるしかなかった。
虚脱感、後悔。
今この瞬間、穏やかだった自分達の関係が終わったのだと思った。
「どうしても、伝えておきたかった」
「……ぇしろ‥‥」
僅かに聞こえた、名を呼ぶ声にそれでも満足げに瞼を落とし微笑むと、抱き寄せた時とは反対の動きで拘束していた身体をゆっくりと離した。
最後に、頬を伝って自らの手が滑り落ちる。
完全に身体が離れた。
ひどく緩慢な動作で、悠理が顔を上げた。
その唇が、酸素を取り込むかのように動いた。
あまりに突然の告白に、まだ思考が追いつかないのだろう。
揺れる瞳には、自分が映っている。
それを認めた瞬間。
―――参ったな…。
たったそれだけのことが、自分でも驚くほど穏やかな気持ちにさせた。
先程感じた虚脱感も後悔も、これまでずっと怯えてきた悠理と離れる恐怖も、全てが嘘のように消え去った。
ただ愛しさだけが、全てを支配している。
自分はただ、無邪気に笑いかける悠理の笑顔が消えることが怖かった。だが、今はそれでも尚。傍にいたいと思える。
たとえ想いが一つにならずとも、その瞳に映ることがなくとも、傍にいたい。
どんなに拒絶されようとも、もう離れる事など出来ないのだとわかった。

ゆるゆると、悠理の手が清四郎のコートまで伸び、力なくその腕に触れた。
「ゆう、り・・・?」
「・・・らぃ・・・」
「え?」
「キライ・・・」
ずっと清四郎を映したままの瞳から、はらはらと大粒の涙が零れ落ちた。
清四郎は息を呑むと、硬く眼を閉じた。
だが、気持ちが揺らぐことはもうない。
触れている悠理の手をそっと掴むと、瞼を上げた。
「わかってます。悠理にとってこれほど迷惑なことはないかもしれない。だけど、これからもずっと傍にいたいんです。この気持ちをもう抑えることができなかった」
悠理が小さく頭を振る。
「悠理・・・」
雫は更に流れ落ちた。
清四郎の手は思わず掴んでいた手から、その頬へと動いた。
「キライに……キライになったって…」
コートを掴む悠理の手に力が篭った。
「悠理?」
「あたいのこと、キライになったって言われるのかと思った」
悠理は搾り出すように言い切ると、俯いてその表情を隠した。肩が震えている。
「ゴメン・・あたい、聞き間違えてるか?あたいもお前のそばにいたい。いてもいいか?」
悠理がゆっくりと顔を上げた瞬間、ザッという小さく砂を蹴るような音がした。
まるで、そうすれば一つになるかのように、体内に取り込み閉じこめてしまえるかのように、強く。
清四郎は悠理を抱きしめていた。
背中に回した腕に力がこもる。
「いいんですか、傍にいても・・・」
「いたい、一緒にいたい」
悠理はしがみつくように清四郎の背中に腕を回した。
「ずっと離れませんよ」
「ずっと一緒にいる」
「嫌われたって離れませんよ」
「今更キライになんてなれない」
「約束してくれますか。ずっと僕の傍にいると」
「する」
「本当に?」
「お前も・・・、お前も同じ約束をしてくれるなら」
「本当に離しませんよ」
「あたいだって離れてなんかやらないからな」

ふたりは漸く、ひとつになった。
花言葉「永遠にあなたのもの・秘めた意思」
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