「ユキノシタ」
「あたい、迷惑か?」
清四郎は応えることができなかった。
「迷惑」というい言葉の意味さえ考えた。
だがこれ以上、感情を抑えたまま悠理の傍にいることはできなかった。
「悪い。出て行ってもらえませんか」
ただ一言、そう呟いた。
部屋の空気が僅かに揺れた。
「・・・・・・わかった。ゴメン」

悠理がいなくなった部屋は、途端に冷たくなった。
清四郎は寒気を感じ、思わず自分の両肩を抱きしめた。
身体が震えている。
(失いたくない!)


「――――清四郎?」
「え?」
不思議そう、というよりはどこか不安げな顔で悠理が自分を見上げていた。
それまでにこやかに話をしていた相手が、部屋の入り口で突然緊張したように立ち止まったのだ。無理もないのかもしれない。
まして、今夜は―――"今"は自分達ふたりにとって数時間前までからは想像だに出来ないほど満ち足りた時間であるはずなのだから。
傍にいられる。
一緒にいることが出来る。
想いが漸く、相手に届いた。
世の恋人達には至極当たり前のそれらのことが、今のふたりには触れれば壊れてしまうのではないかというほど、大切な、生まれたてのかけがえのない喜びであった。
ふたりはこれまでの間、真綿で首を絞められているような、それでいて激しい炎で身を焼かれているような、嬉しい事すら切なくなってしまうような日々の連続だったのだ。
清四郎は自室のドアを開けた瞬間、ここ数日のこの部屋での自分達のやり取りを思い出し、柄にも無く恐怖にも似た感情を覚え体が硬直してしまいそうになったのだ。
「いえ、何でもありませんよ」
悠理の不安を取り除いてやるかのように優しく微笑むと、その背を軽く押し部屋の中へ促した。

「なぁ、ホントに兄ちゃんに言うのか?」
公園で想いを重ね合い、ここに帰ってくるまでの間、悠理は幾度と無く同じ事を訊いていた。
恥ずかしいという気持ちよりは、家族に改めて「紹介」することで、清四郎を縛り付ける事になるのではないかという危惧の方が先に立っているらしい。
剣菱の娘、という看板でもあり重荷が悠理に新たな不安を呼び込んでいた。
「悠理。お前は何も気にする事なんて無いんだ。さっきから何度も言ってるでしょ、僕が言いたいんですよ。それも豊作さんだけじゃない、世界中の人間に言いたいぐらいなんだ」
自分の手にすっぽりと収まる頬を両手で包み込んだ。
「せーしろぉ」
「・・・・・・ホントに。まだ、信じられないな」
不安げな悠理に、瞳を和らげると小さく呟いた。
少し掠れたような、悠理にしか聞こえないその声は悦びを含んでいる。
「なに、が?」
「こうして、悠理が目の前にいることが。僕を見ていることが」
悠理が頬を包む手に自分の手をそっと、遠慮がちに添えた。
「・・・・・な、清四郎。もっかい訊いてイイ?」
「だから・・・」
言いかけた言葉を遮る。
「違うんだ、兄ちゃんの事じゃなくて。・・・・その・・・・・・・」
悠理は言い難そうに言葉を切り、顔を歪めると添えていた手に一度力を込め離した。
そして何かを振り切るように、背を向ける。
「悠理・・・?」
熱かった頬が急に離れ、清四郎は手から体中が冷えていくような錯覚を覚えた。
「あたいの事っ・・・・」
その言葉が聞こえたのが早いか、それとも自分の体が動いたのが先か、気付けば清四郎は背を向けたままの悠理を腕の中に閉じ込めていた。
「せっ、せーしろ・・・・」
一気に硬直する体と、触れ合う部分から伝わる熱い体温に漸く安堵する。
だがそれはすぐに胸の痛みを伴った。
「悠理・・・」
もうこれ以上ない思っていた悠理への想いが更に増していく。
悠理が自分の体に絡みつく逞しい腕を必死に抱え込んだ。
「せーしろぉ」
「悠理」
もう一度名を呼ぶ。
募る一方の想いはろくに言葉にならなかった。
名を口にする事が精一杯だった。
悠理の体を反転させ、自分の胸にその頭を押し付ける。
小さな手が、背中に周りぎゅっとセーターを掴んだ。
「あたいも・・・あたいもまだ信じられないんだ。これは夢なんじゃないかって。いつか目が覚めて、その時お前はどこにもいないんじゃないかって・・・・」
「嫌なこと言わないで下さいよ・・・」
「だって」
「悠理の目の前に僕がいないという事は、僕の前にも悠理がいないということでしょ。そんなこと。もう、無理ですよ。今更、無理です」
悠理の肩を掴み、少し体を離してその瞳に自分を映し込む。
先程離れた温もりをもう一度確かめるかのように、ゆっくりと愛しげに頬に手を滑らせた。
「ずっと。もう・・・・」
「う、ん」
悠理の薄く開いた唇から漏れた熱い吐息が己のそれに触れ、瞼が落ちた。
突如。
けたたましい電子音が鳴り響いた。
体がビクリと揺れ、至近距離で会った視線に映った互いは大きく目を見開いている。
鳴り止まないその音に、清四郎が先に我に帰った。
「―――電話、みたいですね」
当たり前の事が、口をついて出る。
夜更けだと言うのに一向に鳴り止まない電話が、酷く現実感のないものに思えた。
だが、更に電話は鳴り続ける。
「出なきゃ」
それまで固まっていた悠理が口だけを動かした。
「あ、あぁ」
その言葉で漸く体の動いた清四郎は、電話に向かった。
しかしすぐに踵を返すと悠理の手を掴んだ。
「え?」
答えず、そのまま手を引き、鳴り続ける電話に向かった。

「はい」
その音は、外線ではなく内線の音だった。
要するに剣菱邸内の何処かからかかっているものであった。
「――――わかりました。ありがとう」
「何?」
受話器を置くと、悠理が見つめている。
「豊作さんが帰ってらしたそうですよ」
ふたりが邸内に戻った時、出迎えてくれたメイドに、豊作の帰宅を知らせてくれるよう言付けておいたのだ。
「やっぱり、言うの・・・か?」
「悠理、もっと自分の家族を信じろ。僕達の将来は僕達が決めるんだ。それを、豊作さんもおじさんもおばさんもちゃんと、わかってくれる。そういう人たちだろ?お前の家族は」
「・・・・・・・せーしろおぉ」
悠理の瞳にはみるみる内に大粒の涙が溢れていった。
「ほら、もう泣かないで下さいよ。ただでさえさっき公園であんなに泣いて少し瞼が腫れてるんですから。あんまり悠理を泣かすと、祝福どころか僕達の事認めてもらえなくなってしまいますよ」
「出るもんはしょうがないだろ」
本当にどうしようもないのか、拭ってやっても次から次へと涙は溢れていた。
「とにかく泣きやんでくださいよ。そんな顔じゃ豊作さんの所へ行けません。・・・それに」
「それに?」
「そんな瞳で見られたら、我慢できなくなる」
今度こそ。
互いの唇が曳き合った。


「悠理、なに怒ってるんだ?」
ふたりを見た豊作の第一声はそれだった。
「別に。怒ってなんかないやい」
吐息を唇に感じた時、もう一度電話が鳴ったのだ。
今度は豊作自身からで、メイドからふたりが自分に用事がありそうだということを聞き、確認の電話を入れたという事だった。
明らかに怒っている妹に訳がわからないというような顔をしている。
清四郎はそんな視線を向けられ、なんと言って良いのかわからず苦笑を返した。
「ま、いいか。ふたりで僕のところへ来たって事は、きっと期待通りの事を話に来てくれたんだろうし」
「はい」
ニヤリと笑う豊作と、はにかむ清四郎のそんな会話に、膨れっ面をしていた悠理が訝しげに顔を歪めた。
「どういうことだよ」
「・・・豊作さんは、僕の気持ちを知っていてくださったんだ」
清四郎は照れたように、悠理を見た。
「え・・・」
驚く悠理に、豊作は成功した悪戯を白状する子供のような眼をした。
「悠理の気持ちもね」
「えぇ!」
これには清四郎も驚いた。
「ほ、豊作さん・・・。知ってたって・・・」
「いやぁ、随分とヒヤヒヤしたよ。なかなか君達、素直になってくれないんだからね。せっかくわざとこの家でふたりで会えるように画策したのに、ふたりともはっきり言わないし。僕は父さんと母さんに、早くなんとかしろって怒られるし・・・」
清四郎と悠理は、豊作が何を言っているのかほとんど理解できなかった。
「どいう・・ことですか・・・・・」
悪戯っ子のような楽しげな顔をしていた豊作の眼が、真剣なモノになった。
「君達を見ているとどうも歯痒くてね。僕だけじゃない、父さんも母さんも、きっと君達の周りにいる人全部がそう思っていたと思うよ」
だから敢えて在りもしない見合いの話しや会社再建話をでっち上げて清四郎をこの家に留め、ふたりの仲をより近づけようとしたという。
「会いたいって気持ちは人を好きになると、抑えられなくなるものだろ?それは想いが大きければ大きいほどに。だけど君達ふたりはなぜかそれを抑えこんでいた。特に清四郎君はね。だから、それなら無理にでも会わせてやろうと思ったんだ。ま、我ながら随分乱暴な遣り方だったとは思うけど」
――――君達にはそれぐらいの荒治療じゃないと効かないだろ?
そう続けて、漸く瞳を元の彼らしい柔らかなものにした。
「豊作さん・・・」
「兄ちゃん・・・」
そしてふたりは顔を見合わせると、愛しげにお互いを見つめた。

「……コホン」
小さく遠慮がちに咳払いが聞こえ、ふたりは慌てて互いから視線を離した。
「素直になってくれたのは嬉しいんだけどね」
豊作が頭をポリポリ掻きながら、上目遣いにふたりを見ている。
「あっイヤ。スイマセン・・・」
珍しく小さくなる強心臓のふたりに、豊作はクスリと小さく笑みを漏らした。
「僕の話はこれで終わりだよ。―――幸せになるんだよ、ふたり共」
はい、と力強くうなずいた清四郎の手を悠理がぎゅっと握り締めていた。
俯き、肩を震わせている。
清四郎は握り返し、反対の手であやす様に髪を撫でた。
「悠理」
「朝になったら、父さん達にもこの事教えてやってくれないか。二人も随分心配していたからね」
「おじさん達にもバレバレだったんですね」
妙な気恥ずかしさも今はなんだか心地良かった。

朝になれば悠理の両親だけでなく、仲間や、自分の家族にも報告したい。
例え何が起ころうとも、悠理を離すことなどできないのだ、と。
この手は、もう離さない、と。
花言葉「愛情・好感・軽口・無駄・切実な愛・片意地・博愛」
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