「キンセンカ」
悠理はその大きな分厚いドアを目の前に、一度大きく深呼吸をした。
「よ、よし!」
気合を入れてノックすると、「はい」と短く返事が返って来た。

「―――出かけるのか?」
その部屋の主である清四郎は、ワイシャツのカフスボタンを留めているところだった。
「えぇ、豊作さんと剣菱の関連のパーティーにね」
「また、兄ちゃんか。仲イイな」
ソファにどっかと胡坐をかき、片眉を上げた悠理に清四郎は肩を竦めただけだった。

クローゼットに備え付けられた大きな姿見の前に立った清四郎は、蝶ネクタイを付けている。
「で?何か用事だったんじゃないんですか?」
真っ直ぐについた事を確認すると、静かにクローゼットの扉を閉めた。
「い、いや。五代がさ・・・お前が来てるって言うし・・・」
悠理がボソボソと呟いている間にも、清四郎は身形を着々と整えていった。

「そういや、今日は魅録と出かけるとか、言ってませんでしたか?」
腕に時計を着けながら、清四郎は思い出したようにちらりとだけ顔を上げた。
「え?あ、あぁ。うん、今から行く」
すくっと立ち上がった悠理に、上着を着かけていた清四郎の動きが止まった。
だが、すぐにその動きを再開させ、襟元を正した。
「でもお前もすぐに出るんだろ?見送ってやるよ。それぐらいの時間はあるし」
悠理はドアに凭れると、清四郎の準備が整うのを眺めた。

「―――さてと。じゃぁそろそろ行きますよ」
時計を確認すると、悠理の元―――ドアへと近付いた。
「あぁ」
「悠理?」
返事は確かに聞こえたのだが、悠理は動く気配がなかった。
少し視線を落とし、いつもの元気もない。
動かない悠理に、清四郎の手がふわりと浮いた。
「あ、ゴメン」
触れる直前、悠理が気付き、横に体をずらした。
「大丈夫か?どこか・・」
顔を覗きこむ清四郎に、慌てて笑顔を見せると、悠理は首を振った。
「大丈夫、大丈夫」
「ならイイですけど・・。じゃ、行ってきますよ」
「うん」
不思議そうな顔をして出て行く清四郎を、悠理はそのままの笑顔で見送った。

本当は魅録との約束なんてなかった。
そんな約束があると言ったら、少しはなにか反応してくれるのでは、と僅かな期待をしてしまった。
「ばっかで〜」
主のいなくなった部屋は、寒々しい。
ソファにごろんと寝転がった。
次第に視界がぼやけ、悠理は両手で思い切り頬を打った。
「いって〜!・・・・・・はぁ、何やってんだ、あたいは」
ポツリと呟くと、のそのそと起き上がり窓辺に立った。

恐らく。もう少し経てば、清四郎が出て来るところが見えるはずだった。
その時を、窓ガラスに頭を擡げ、ぼんやりと待った。
ガラスに映る自分に、思わず笑ってしまう。
「誰だよ、こいつは」
黒塗りの、兄専用車が玄関前にぴたりと止まった。
悠理は慌てて窓を開け、身を乗り出した。
豊作とその秘書。そして、清四郎が出て来る。
「せーしろー!にーちゃーん!」
その大声に二人が揃って窓を見上げると、悠理は大きく手を振った。
「お土産、よろしく〜」
そう言うと二人が顔を見合わせ溜息をついているのが見えた。

清四郎がふと顔を上げ、自分の左手首を指差している。
―――時間は?
そういう事なのだろう。
"魅録との約束"少しは関心を持ってくれているようだ。ただし、期待とは全く意を違えて。
悠理は曖昧に微笑み、更に手を振った。
「食いすぎんなよ〜」
苦笑して車に乗り込むその姿に、力なく手を降ろした。

走り去る車が小さくなっていく。
悠理の膝が、窓辺に手を残したまま、崩れ落ちるように折れた。
「・・・・う〜・・・」
意思とは関係なく、涙が零れ落ちる。
止まらなかった。
自分でも訳のわからないその涙は、床に小さな水溜りを作っていた。
「う・・・う〜・・・・」

その嗚咽は暫く、止みそうになかった。
花言葉「乙女の美しい姿・失望・悲しみ・用心深い・悲嘆・別れの悲しみ、不安・疑惑・嫉妬(仏)」
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