「カゼ」
風美子は一人その公園のわき道を急いでいた。
秋の空は夕暮れが早く、少し冷たい風が程なくして夜を運んできそうな趣だ。
いつもならクラスメートと連れだって帰宅の途につくのだが、今日に限って担任の教師の手伝いを頼まれていて遅くなってしまった。
(今日ぐらい、迎えを寄越してもらえばよろしかったかしら・・・)
大手銀行の頭取の娘である彼女は、聖プレジデント学園というハイソ学校の生徒である。
世間で言うところのお嬢様である彼女は、幼い頃より夜道の一人歩きは危険であると教えられ育っていた。
散歩や瞑想にはもってこいの、静かな公園。
それも今の風美子には不安の元でしかなかった。
「そうですわ、やはり迎えを」
誰が聞いているわけでもないのに、口に出し、うんと頷いた。
携帯電話を持っていない彼女は、辺りを見回した。
どこかに確か、公衆電話があったはず。
毎日傍を通っていても、意外とそういう事は記憶に残りづらい。
いつもの帰り道の風景を思い出しながら、歩き出した。

「確か、この先に・・」
延々続きそうな街路樹の間に確か電話ボックスがあったはずであった。
風美子は思わず走り出し、その姿を見つけた。
まるで何かから逃げていたかのように、ボックスに入ると、一つ息を吐いた。
(私ったら何してるんでしょ)
自分でも可笑しくなり、ククッと笑う。
さぁと思い、受話器を取り上げた。
「え・・・」
ボックスのガラス越しに、自分と同じ制服が見えた。
なにやらその彼女は胸に紙袋を抱き、きょろきょろしている。
学校内では見た事のないぐらいの不安そうな顔をして。
噂では怖いものなど何もなく、不良やヤクザ、マフィアだって蹴散らしてしまう、野蛮人。
同じ生徒会の役員である、そして風美子の憧れの君である野梨子とは大違いの彼女は何か探しモノでもしているのか、ベンチの下まで覗き回っていた。
「剣菱様ったら、またなにかなさったのね」
少し軽蔑の入った言い方には訳があった。
風美子は剣菱様――剣菱悠理嬢があまり好きではなかったのだ。
それと言うのも、清楚で凛としている白鹿野梨子嬢から一時的とは言え、その幼馴染を奪ったからであった。
お家同士の政略結婚の為に、悠理とその幼馴染は婚約をした。
だが、剣菱家が強引に進めたというのがもっぱらの噂であった。
つまり、悠理が無理に野梨子からその幼馴染を取り上げた、という見解である。
なので、婚約が破談になったと聞いた時、野梨子を想いこれ以上ないというほど風美子は同じ思いの仲間達と喜び合ったものだ。
(最近は野梨子様もいつも通りの笑顔を取り戻してらっしゃいますし。きっとあのお方と上手くいってらっしゃるのよね)
朝、野梨子がその幼馴染と共に登校して来るところを見るのが好きな彼女は、二人の仲が婚約騒動の事で一段と良くなった気がしていた。
(明日皆様に今の剣菱様の事、お伝えしましょう)
意地の悪い事を考えほくそえんだ風美子は、次の瞬間、はっと息を呑んだ。
「まさか・・・」
今にも泣きそうになっている悠理の肩をあろうことか、野梨子の幼馴染、菊正宗清四郎が叩いたのである。
叩いたといってもぶったわけではない。
振り返った悠理に笑みを見せ、安心させている。
しかもその手にジュースの缶を二本持っている事から考えても、今偶然出会ったわけではなさそうだった。
どうやら悠理が探していたのも、彼の事だったらしい。
「待ち合わせていらしたの・・・?こんな時間に・・・こんな場所で」
明らかに彼等の下校ルートではない。
特に悠理はいつも車での送り向かえなのだ。
風美子は受話器を握り締めた。
「何故ですの。何故こんな風に・・・」
ふたりは風美子が見ているにも気付かず、公園内に入りベンチに並んで落ち着いた。
悠理の方はなぜか少し怒っているようで、清四郎が彼女の胸の包みに手を伸ばしても体を背けてしまっている。
それでも清四郎は溜息をつくと、悠理にジュースを手渡していた。それもきちんと、プルタブを上げてやってから。
「菊正宗様・・・どうしてですの?剣菱様にそんなに親切になさるだなんて」
学園内で見かける様子では、いつもふたりはつまらない事で言い合っている。
特に清四郎の方は悠理をいじめて遊んでいるという風だ。
なのに、今は清四郎はぼんやり前を見ていたかと想うと、時折隣の悠理に穏やかな視線を送っている。
それは野梨子といる時には見た事もないようなものだった。

暫く経って悠理が清四郎に何か話し掛けている。それに応えた清四郎の手から彼のジュースを受け取ると、躊躇いもなく口をつけた。
「ま、まぁ」
純真な乙女である風美子は顔を真っ赤に染めた。
「キ、キ、キ、キ、キスですわ。間接キッス・・・」
自分の口元に手を当て、それでも眼は彼等から逸らさず驚いている。
美味しそうにそれすらも飲み干した様子の悠理は、先ほどの怒った顔からは信じられないほど、そう風美子ですら思わず「可愛らしい」と思ってしまうほどの笑みを清四郎に向けた。
悠理の手の中のモノがなくなると、ふたりはなにやら話し始めた。
時々お互いにむっとした表情になっているところから見ると、どうやら関係が上手くいっていないらしい。
風美子がそこに束の間の安心を得ていると、ふたりは急に笑い出した。
清四郎など、声を上げて笑っている。
「あの菊正宗様が・・・」
品行方正、優等生の代名詞、時には鋭い視線で教師をも黙らせる彼。
あんな風に笑う事など、風美子の記憶にはないものだった。
更に彼女にとって衝撃的な事が起こった。
ふたりがとても優しい表情で見つめ合っているのだ。
そうかと想ったら、あろう事か悠理が清四郎に抱きついた。
まるでじゃれ合う子猫達のように清四郎も嫌がるようなそぶりを見せつつ表情は笑っている。
そして体制を立て直すと、今度は清四郎が悠理を襲い出した。
悠理の細い手を掴み、引き寄せると耳元に顔を近づけている。
「き、菊正宗様!」
小説や映画で見た風景そのものである。
それも恋人同士の戯れのシーン。
風美子の顔は今にも湯気が出そうであった。
それは憤りではなく、ふたりの様子のなぜか照れてしまって―――。

それからのふたりは風美子に憧れと憤りを感じさせた。
ベンチから立ち上がり駆け出した悠理を清四郎が後ろからふわりと包み込む。
一度離れはしたが悠理から近付き、また清四郎がその体を包んだ。
正直、綺麗だと想った。
だが、清四郎は野梨子と良い関係を築いているはずなのだ。
少なくとも今の野梨子にあの婚約騒動の時のような痛々しい姿は見られない。
それはやはり、清四郎との関係が修復―――むしろ進展しつつあるせいではないのか。
友人達と語り合った、清四郎と野梨子の関係が今、目の前に悠理との関係となって顕れている。
「どういう事なんですの。おふたりはお別れになったんじゃありませんの」
今すぐふたりに駈け寄り、問い詰めたい気持ちで一杯であった。
そんなこと、できるわけもないのだが。
例え聞く事が出来ても返って来る答えは見たままの景色と同じであろう。
ふたりは友人面をして、野梨子を騙しているのだ。
「あぁ、かわいそうな野梨子様。いいえ、菊正宗様があんな卑劣な方なら早いうちにお忘れになるのが幸せというモノね。今ならまだ大丈夫だわ、きっと」
風美子は野梨子が一時は傷ついたとしても、この先偽りの幸せに騙されていくよりは早々に気付かせたほうが幸せだと思った。
「早速、皆にお知らせしなければ。野梨子様をあの悪魔から守るのよ。風美子!」
風美子は硬く決意を固めると、漸く家に電話を掛けた。
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