「恋一夜」
「ゆう・・り・・・」
ドアを開けると、先ほど部屋まで送り届けた悠理の姿があった。
しかしその恰好が別れた時のそれではなかったため、清四郎は眼を瞠った。
湿り気を帯びた髪、上気した頬。
合わさったバスローブの襟元から、白い肌が覗いている。
「やっぱり、もうちょっと・・・その・・・」
―――一緒にいたくって

別れてから、シャワーを浴びて一心地ついていると、一人でいるのがたまらなく寂しくなった。
会いたい。つい先ほどまで一緒だったのに、もう会いたくなった。
今までは、会えなかった。だけど、もう会える。会ってもいいんだ。
そう思うと、自然に身体がここへ向かっていた。

「・・・だからって、何も・・・」
「悪かった・・?」
深々と溜息をついた清四郎に、悠理の表情が一気に曇った。
俯き、力無く踵を返すその小さな肩を清四郎の手が止めた。
「違う。僕も会いたかった。だけど・・・・こんな恰好は反則ですよ」
掴んでいた肩を引き寄せ、後ろから抱きしめる。
濡れた悠理の髪が頬に当たり、少し冷たく感じた。

「僕も男なんですよ」
「知ってる」
「今までだってどれだけ我慢してたと思うんですか」
「我慢?」

この手に触れれば、その瞬間もう抑えが効かなくなりそうで敢えて避けるように冷たい態度をとっていた。だというのに・・・。

「とにかく、いくら自分の家だからってこんな恰好で出歩くんじゃない」
「何を我慢してたって言うんだよ」
「人の話、聞いてるのか」
「何の我慢」
「自分で考えろ」

清四郎は体を離し悠理の髪に梳く様に手を差し入れた。
「ほら、風邪ひきますよ。さっさと部屋に戻ってください」
「ここにいちゃ、ダメか?」

こんなに傍にいたいのに。
やっぱり、さっきまでの事は全部夢だったのか。
でも、今も清四郎は抱きしめてくれた。
憮然としている清四郎の表情と、先ほどまでの信じられないような優しい一時が、悠理には何処でどう繋がるのかわからなかった。

「大事にしたいんだ。やっと手に入れられたから、大切にしたいんですよ。でも今、このまま一緒にいたら、自分でもどうなるかわからない」
はにかんだその表情に、悠理は漸くその意味を理解し、思わず涙眼になるほど顔を赤らめた。
「うそっ・・・」

(―――やっぱり、自覚無かったか)
今まで女扱いされた事が無かったのだ。
想いが通じ合ったとはいえ、まさか急にそんな風に言われるとは思ってもいなかったらしい。
人の顔とはここまで赤くなるもんか、と清四郎は悠理に苦笑を浮かべると、その背中を廊下に押しやった。
「僕も一緒にいたいのは山々なんだ。だけど、わかって貰えませんか」


悠理は赤い顔のままこくんと頷くと、自らドアを閉めた。
理性の限界が近付いていた清四郎は、閉まったドアを見つめ暫くその場から動く事が出来なかった。
これで良かったんだ、と何度も自分に言い聞かせ追いかけて抱きしめたい衝動を冷たいシャワーを浴びて振りきった。


暗闇に広がる静寂の中、がちゃり、とドアの開く音で清四郎は眼を覚ました。
(誰だ・・・)
スッスッと部屋の絨毯の上をスリッパの足音が近付いてくる。
今いるベッドルームの前でその足音が止まり、また静寂だけになった。
誰かが、ドア一枚隔てた向こうにいる。
清四郎は、片肘を突いて、半身を起こした。
ガチャリ。
清四郎が寝ていると思っているのか、ドアがそっと開く。
光のないその場所と、寝起きな所為で、清四郎にはその輪郭しかわからなかった。
だが、それで十分だった。
「悠理」

少しの衣擦れの音と、すとんという、恐らく何か重めの布の落ちた音が聞こえた。
スリッパも脱いだのか、足音は先ほどより小さくなっている。
「どうしたんですか、眠れないんですか」
平静を装って、上体を起こす。
近付いてくる輪郭が、妙にはっきりとその「姿」を形作っている。
「・・・め、眼、瞑ってて」
清四郎のすぐ傍まで来ると、そのシルエットがしゅっと沈んだ。
「悠理?」
「いいから、眼、瞑ってろって!」
真っ暗闇で全く目も慣れない。
その状況で、眼を瞑る必要が何処にあるというのだろうか。
しかし清四郎は言われた通り、眼を閉じた。

「見えてない?」
「あぁ。全くね。何するんですか?」
「じ、じっとしてろよ」
声が震えている気がした。

シーツに僅かに抵抗を感じたと思った瞬間、ふわりとそれは浮き上がり、ベッドが沈んだ。

「――――まさか・・・・」
体内の血液が逆流したかのように、清四郎の身体が粟立った。
大きく目を見開き、シーツを捲りあげようと手を掛けた。
だが、抵抗される。
「だ、ダメだって!」
「悠理・・・」

そろそろと、シーツの中から手が延び、清四郎のパジャマを掴んだ。
「あの・・・やっぱり、一緒にいたかったから・・・」
消え入るような声が、シーツから聞こえ、清四郎の理性はぷつりと切れた。

パジャマに伸びていた手首を掴み、悠理の身体を力いっぱい引き上げた。
「だめっ!」
その声を唇で塞ぐ。
抱きしめた腰に触れた時、その感触に清四郎の胸がどくりと大きな音を立てた。

何処までも続く滑らかな肌。
それを滑る清四郎の手も、震えていたかもしれない。
悠理の身体が強張り、掴まれていない方の腕が清四郎の胸を押し返した。

「あ、あ・・・あの・・・」
言葉にならない。
清四郎はどう思っただろうか。
どうしても一緒にいたかった。
数時間前までは、傍にいられるだけで良かった。
嫌われたのではない、それがわかっただけでも良かった。
女としてじゃなくてもいい、ペットでもいい。そう思ってた。
それなのに、いま自分はこうして、自分の全てで清四郎の傍にいようとしている。
清四郎がそう望んでいるのなら、それで傍にいられるのなら。
―――違う。
自分もそう望んでいたのかもしれない。
とにかく、何でも良かった。
傍にいる理由さえ、あれば。
大事に思ってくれるより、傍にいる事を望んで欲しい。

「無茶、しないでくれ・・・」
至近距離で、清四郎の鋭い眼光が見えた。
低く、少し掠れた声を発した唇は、悠理の首筋を這った。
悠理の手首を掴んでいた手が、裸の背中に回る。
両腕で抱きしめられ、悠理の眼から一滴零れた。
「だって・・・」
震える手で、清四郎の頭を抱きしめる。
「だって、どうしていいのか、もうわからない・・・・」
昇ってきた唇が、涙ごと悠理の唇を塞ぐ。
止め処なく溢れだした涙を止めるように、目尻を吸い上げ、そして頬に出来た筋を辿るように清四郎は口付けを落としていった。

清四郎は濡れた悠理の顔を見つめた。
身体は支えていないと手折れそうなほどに、弱弱しい。
いつもの何をしても壊れないという姿は何処にもなかった。
「もう、大丈夫だ」
抱きしめ、頭を抱き、頬を擦り合わせる。
そしてまた、身体を離し、自らのパジャマのボタンに手を掛けた。

悠理の手に、清四郎の肌が触れた。
硬くて暖かい、鍛え上げられた胸筋。
清四郎に導かれるまま、唇を重ね、手をその首に回した。
肌と肌が、直に重なる。
胸が締め付けられるように、苦しかった。
「悠理・・・」
唇が触れ合ったまま、名を呼ばれる。
首に回していた腕を掴まれ、体が離された。
「ずっと一緒にいよう」
肩に、柔らかな布が触れた。

今しがたまで着ていたパジャマの袖に悠理の腕を通していく。
されるがままになっていた悠理は、ボタンを二つ留めたところで漸く口を開いた。
「せ・・しろ・・・?」
清四郎は微笑み、悠理の身体をもう一度抱きしめた。

「随分無茶な事を思いついたモノですねぇ」
それはいつもの皮肉交じりの口調だった。
だが髪を梳いてくれる手は何処までも優しい。
「なんで・・・?」
身体が強張ったのがわかったのか、髪を梳く手が止まった。
だが、その手は頬に滑り落ちてきた。
「まだちゃんと気持ちの準備が出来てない悠理を抱くわけにはいきませんから」
「あたいなら!」
―――大丈夫だった。
と言えるだろうか。
本当はまだ怖かった。
だが、それが口実になるのなら、それでもいいと思っていた。
清四郎がふと笑う。
「ゆっくりでいいんだ。今はただお前が僕を想ってくれている、それがわかっただけで、こうしていられるだけで十分だから」
「せーしろ・・・」
悠理は縋るように清四郎の胸に顔を埋めた。

・・・でも、悠理?
何?
次はもうどうなっても知りませんからね
・・・・・・うん。
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