「オト」
「今日も来たわよ!悔し〜」
美音子はナースステーションに戻ると、点滴で出たゴミを専用のゴミ箱に叩き付けるように投げ込んだ。
「ちょっと、婦長に見られたら怒られるわよ」
少し乱暴だったそれを、同僚の朝子が嗜めた。
美音子が勤務する、菊正宗病院内科病棟の婦長は正確さにはもちろんの事、礼儀、立ち居振る舞いに厳しく、例え院長が相手であってもそれが彼女の基準から外れると、有無を言わせないのだ。
今の美音子のゴミの捨て方など、見られていては完全に叱り飛ばされているだろう。
朝子の言葉に、美音子は思わず辺りを見回した。
「危ない、危ない。でも聞いてよ!」
美音子は怒り収まらない、という風に器具の消毒や整理をしていた朝子に詰め寄った。
だが彼女の方も美音子が何を言いたいかわかっていたようだった。
眉を下げ、美音子の肩をポンポンと軽く叩いた。
「剣菱のお嬢様でしょ?さっきここを通って行ったもの」
「なんなのよー。毎日毎日イヤラシイ!」
朝子は、胸の前で両拳を握り締め悔しがる美音子に苦笑した。

美音子が悔しがっているのは、特別室に入院するこの病院の院長の御子息、菊正宗清四郎の病室に、毎日恋人が見舞に来るからだった。

清四郎は入院する前から密かにナースの間で人気があった。
院長の息子、という肩書きはもちろんの事、並のモデルよりも整った見た目に加え、高校生とは思えないその雰囲気は「二代目のドラ息子」というイメージをこの病院では、架空のものにした。
その清四郎に、毎日毎日見舞に来る女性がいる。
以前この病院にも入院した事のある、剣菱財閥令嬢、悠理。
彼女の病名は確か急性腎不全だった。
金持ちのお嬢様の事、さぞかし美味しいものでも食べ過ぎたんだろうとやっかみ半分で皆と噂したものだった。
その時、今と同じように清四郎が毎日様子を見に来ていた。
だが、それは多くの友人達と一緒にだったり、来てもすぐ帰ったり、という風だったので、仲の良い友人なのだろうと思っていたのである。
だと言うのに、今回清四郎がこうして入院してみると、悠理は毎日のように病室に来ては面会時間ギリギリまで居座る。
いつも頃合を見て手の空いている誰かが面会時間の終了を告げに行くのだが、その時病室に入った者は皆「もう彼の事は諦めるわ」というのだった。
美音子も先日言いに行ったのだが、確かに皆が諦めたくなるような雰囲気であった。
ベッドがあるからといって何かしていた、という訳では勿論ない。
まだそんな色っぽい雰囲気なら、ここが病院である事を盾に悠理を追い出す事も出来るのだが、ふたりの様子といえば至って健全なのだ。
(若い男女が同じ部屋で数時間を過ごしていて何もないのが健全というのかどうかは謎ではあるが)
とにかく、悠理が菓子を頬張り、清四郎はそれを呆れて見ているという図が日常だった。
なのに、その間に入り込めない空気がある。
「面会時間、そろそろですので」この一言を言うのに、一瞬間を開けてしまうほどだった。


「大体清四郎君はまだ安静にしてなきゃいけないのよ。それなのに、あんな風に居座られたんじゃゆっくり寝ていられないじゃない」
「それ昨日、鈴子も言ってたわよ。しかもお嬢様に直接。よくやるわよね」
朝子は同僚の名を挙げるとクスクス笑い、美音子を見た。
彼女は特に「清四郎だから」といって患者としての興味以外なにもないので、自分は蚊帳の外と、こんな美音子を見るのが楽しいらしい。
「いいえ、言ってやるべきよ。明日鈴子に会ったら抱きしめるわ。よく言ったって!あたしもそれぐらい言うべきだったのに」
悠理と病室で鉢合わせした美音子は、清四郎の「ありがとう」という言葉と笑顔にうっとりしてしまい、ついライバルにまで笑顔で出てきてしまっていたのだ。
「あ〜やんなっちゃう。せっかく清四郎君が入院してチャンスだと思ったのに!」
「―――それは残念だったわね」
突然後ろから、新しい声が聞こえ、二人は振り返った。
「和子さん」
和子は遠慮も何もなしにナースステーションに入ると、弟のカルテを探し出し開いた。
「父にこれ持ってくるように頼まれたの」
「そんな、御連絡いただければ院長室までお持ちしましたのに」
朝子が困ったように言うと、和子は笑って応えた。
「良いのよ。あいつの見舞がてらに来たようなものだしね」
和子は来春卒業予定の医大生である。
世間では夏休みと言っても彼女の場合、忙しいらしく清四郎の見舞に来たのは今日が初めてであった。
「家で父に様子は聞いてたんだけどね、あいつが熱出すなんて滅多にない事だから顔でも見とこうと思って」
そう言って病室に向かいかけた和子に朝子が遠慮がちに声を掛けた。
「あの、今清四郎さんの所には・・・」
「あぁ、悠理ちゃんでしょ?将来あたしの妹になるんだから余りいじめないであげてね」
「えぇ!もうそこまで決まってるんですか!?」
その言葉に美音子が悲壮な声を上げると、朝子と和子は思わず顔を見合わせた。
「そんなにショックだったの・・・?」
がっくりと肩を落としてしまった美音子に、和子は「マズイ事言ったかしら」と朝子に肩を竦めて見せた。
朝子も苦笑を返すと、「ここはいいですから」と和子の背中を押しやった。

「仕方ないじゃない。あのふたりお似合いなんだし、ね?」
「うん・・・」
和子の言葉にショックを受けた美音子は呆然と椅子にへたり込んでしまっていた。
「ほら、仕事して。婦長に見られたら更に気が滅入るわよ」
「うん・・・」
美音子はのそのそといった風に立ち上がると、丁度鳴り出した内線を取った。
「はい、内科。・・・入院ですね。・・・・二十三歳、男性・・・映画の撮影時に盲腸・・・・それって俳優さん?すぐに準備します!」
急に張り切りだした美音子に、朝子は肩を竦めくすりと笑った。
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