「夏音」
悠理が目の前の白いドアをノックすると、中から聞こえた返事は女性のものだった。
聞き覚えの無いその声に、横にかかっている名札を確かめそろりとドアを開ける。
「せーしろ?」
中には確かに、清四郎がベッドに横になっていた。
その傍には白衣の天使。
清四郎の腕に点滴を挿しているところだった。
「あぁ、なんだ。今の看護婦さんの声だったんだ」
「誰だと思ったんです?」
妙に安心したような顔をしている悠理に不思議そうに聞く。
「誰ってわけじゃ・・・。ただ知らない声だったから誰かと思ったんだよ。病室間違えたかと思ったんだ」
不貞腐れたように言う悠理はさっさと病室にある応接セットのソファに座りこんだ。
「それじゃ、失礼します。終る頃にまた来ますので」
点滴のセットを片付け、看護婦が一礼する。
「どうも、ご苦労様です」
清四郎がにっこり笑って礼を言うと、その看護婦は少し顔を赤らめて部屋を後にした。
「・・・今の看護婦さんは普通だなぁ・・」
テーブルの上に置いてあった、お菓子の袋を開けながら悠理が呟く。
「普通とは?」
点滴を気にしながら、少しずつ身体を起こしていく。
「ダメだよ、まだちゃんと寝てなきゃいけないんだろ」
悠理はそれを見て、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですよ。熱も大分下がったし」
「怒られんのはあたいなんだからな」
悠理はそう言うと、清四郎を無理やり押さえつけた。
だが、いくら清四郎の身体が弱っているとはいえ力では敵わない。
清四郎は肩を押さえる悠理の腕を軽く抑えると、結局上半身を起こしてしまった。
「なんで、悠理が怒られるんですか」
「知るかよ。でも最近、なんか看護婦さん達怖いんだ。昨日も帰るとき、清四郎さんはまだ安静が必要なんですからね、とか言われたし・・」
「まぁ、確かに走りまわれる身体じゃありませんけどね」
それにしても、と清四郎は思った。
「あ、そうだ!それよりこれ見てくれよ!」
悠理がじゃーんと言う効果音と共にカバンから取り出したのは向日葵の模様の小さな風鈴だった。
「どうしたんです?」
子供のように得意げな顔の悠理に、こちらも嬉しそうな顔で訊く。
「さっき、ここに来る途中で買ったんだ。この部屋、イイ風入ってくるだろ?」
ちりん、ちりんと鳴らして眺めている。
「この部屋につけてくれるんですか?」
「もちろん!夏らしいだろ」
悠理は嬉しそうに言うと清四郎の目の前で風鈴を鳴らした。
「今度行きましょうね、向日葵畑。もうすぐここからも出れるでしょうし」
「ホントに?!」
「えぇ。大体、初めから入院なんて大げさだったんですよ。点滴だけなら家で十分なのに」
「お前、子供みたいだぞ」
珍しく不貞腐れたように言う清四郎に、悠理が可笑しそうに笑った。


悠理が向日葵畑を見てみたいといったのは夏の初めだった。
だが、行こうと思っていた矢先に、清四郎が入院してしまったのだ。
清四郎が菊正宗病院、つまり自分の父が院長を勤める病院に入院したのは五日前。
いつものようにふたりで出かけている途中、川に流されたダンボールの中に子犬が入れられているのに、悠理が気付いた。
今にも川に飛びこみそうな悠理を慌てて止め、少し深めのその川に入り子犬を助け出した。
ずぶ濡れにはなったが、子犬に頬を摺り寄せて喜ぶ悠理の前にはそんなこと気にならなかった。
夏の盛りとは言えずぶ濡れになってしまった事を心配する悠理に、これぐらいで風邪をひくようなやわな身体じゃありませんよと返したのだが・・・。
その言葉は真実だった・・・・・・普通の状態だったならば。
清四郎はその日あまり普通ではなかった。それまでの一週間ほとんど寝ていなかったのだ。
悠理曰く怪しげな薬の研究に、学校以外の時間をほぼ当てていた。
寝不足に過労、そして、ずぶ濡れ。
さすがの清四郎もこの三拍子には勝てなかったようである。
その日の晩に生まれてはじめてだという高熱を出し、即刻入院となった。

「で?今日も、見舞い品を漁りにきたんですか?」
窓辺に早速風鈴を取りつけている悠理の後姿に声をかける。
悠理は入院してから毎日、見舞いに来たと言っては清四郎宛の見舞い品、もちろん食べ物を食べていた。
最初の二日間はメンバーも一緒だったのだが、さすがに三日目の段階で見舞いにも飽きたらしい。
今では悠理しか来なくなっていた。
だが、清四郎も高熱がなかなか下がらなかったので、みんなが来ていてもろくに相手も出来なかったのだ。
「ちがわい、あたいはちゃんと見舞いに来てるんだぞ」
「その割には、いつも何かしら食べ物を漁ってるように見えますが?」
ベッドの脇に戻ってきた悠理を可笑しそうに見る。
「だって、お前は食べないんだろ?だから、あたいが食べてやってんじゃん。それに、お前がこんなんになったのも、元はと言えばあたいの所為だし・・・」
「子犬を見つけたことを言ってるんですか?」
悠理はベッドの端に、清四郎に背を向けて座ると、コクンと肯いた。
「そんな事気にしてたんですか?僕がこうなったのはあの子犬とは関係ありませんよ。親父に聞いたでしょ、寝不足と過労が原因らしいですから。それに、悠理が気付かなかったらその子犬、今頃死んでいましたよ」
その言葉に勢いよく顔を上げ、清四郎の顔を見る。
「あの子犬、どうしてます?」
「タマや、フクと一緒に遊んでる。あたいどうしてもアイツ離すのが嫌で、うちで引き取ったんだ」
清四郎の優しい表情に、悠理の顔にも笑みが浮かんだ。
「そうですか、それじゃぁ退院したら、会いに行きますかね」
「うん。―――でさぁ・・・・・」
「なんですか?」
口篭もる悠理に首を捻る。
「あれ貰っていい?あのクッキーの缶」
元気になった悠理は、さっき座っていた所の向いのソファに置いてある缶を指して言った。
「どうぞ。やっぱりそれが目当てなんじゃないですか」
清四郎は呆れた様に、顔をしかめた。
「違うって。ただ、美味しそうだなぁと思っただけで」
誤魔化すように笑うと、スキップでもしそうな足取りでその缶を取りに行った。

「お前も食べる?」
悠理は訊くと、返事も待たずにまたベッドに腰掛けた。
「僕はいいですよ、まだ食事はお粥だけなので」
「よくそんなんで持つよなぁ・・。その方がよっぽど身体壊しそうだけどな」
悠理は抱えていた缶の中身をつまみながら足をぶらぶらさせて不満そうに言った。
そして言ってからあっと口を開く。
「ごめん」
「何がですか?」
突然謝る悠理に間の抜けた顔で訊き返した。
「いや、だってお前、まだお粥しか食べれないのに、あたい目の前でこんなモン食っちゃって・・・」
缶の蓋を慌てて閉める悠理をベッドから手を出して止める。
「イイですよ。食べててください」
「でも・・・」
「悠理の為に置いてあるんですから」
「あたいの?」
首を傾げる悠理に、小さく笑う。
「よく病室にあるモノを見てくださいよ。全部食べるものでしょ?御見舞いで頂いたものはまだ他にも色々あったんですけど、食べるもの以外はみんな家に持って帰ってもらったんですよ。置いといてもしょうがないですからね」
悪戯っぽく笑う清四郎にますます不思議そうな顔をする悠理。
「食べるものは悠理が片付けてくれるでしょ?だから、全部そのまま置いてあるんです」
「じゃ、じゃぁ、ここにあるやつ全部あたいが食べてイイのか?」
「えぇ」
「やりぃ〜!」
悠理は顔を輝かせると缶の蓋を開けた。

美味しそうにクッキーを食べる悠理を、目を細めて見つめる。
「美味しいですか?」
「うん!なぁ清四郎も、一個ぐらいなら大丈夫なんじゃないのか?」
「どうですかね?」
「じゃぁ、ちっちゃいの。それぐらいならいいだろ?」
悠理は一際小さい粒を選ぶと、清四郎の口元に運んだ。
気を使ってくれる悠理が嬉しくて、おとなしく貰う事にした。
だが、そのクッキーを受け取る前に悠理の指先が口に触れた。
悠理は悠理で何も考えず、ただクッキーを食べさせることしか頭になかったので清四郎の口に触れた途端、急に自分のしていた事が恥かしくなった。
一瞬目が合ったふたりは揃って顔を赤らめ、慌ててそっぽを向いた。
「や、やっぱり遠慮しておきますよ・・・」
「そ、そだな・・・うん・・」
柄にもなくドキドキする清四郎に対して、悠理の顔が少し曇った。
「そ、それより清四郎・・・お前ホントに熱下がったのか?い、今ちょっと・・・その・・・・熱かったから・・・」
未だ顔の赤い悠理は身体を捻り、照れながらも手を清四郎の額に乗せた。
「うわっ!やっぱり!!」
慌ててベッドを降りる悠理。
先ほどの所為で照れていたから、というこではないことを清四郎自身もわかっていた。
だが、熱があることを言えば、またきっと悠理は気にする。そう思って黙っていたのだ。

「そりゃ少しぐらいありますよ。でも、こうして点滴を打ってもらっているので大丈夫ですよ」
悠理を安心させようと、点滴に目をやる。
それでも悠理の顔は晴れなかった。
「なぁ、もしかしてこうやってあたいの相手してるのも、本当はしんどいんじゃないのか?」
泣きそうになっている悠理にため息をつくと、努めて明るく言った。
「そんなわけ無いでしょ。しんどい人間がここまで喋れるわけないじゃないですか。今の悠理の方がよっぽど病人みたいな顔してますよ」
「せーしろぉ・・・」
「ほら、笑ってくださいよ。見舞いに来てくれたんでしょ?」
「ダメだよ・・・やっぱちゃんと寝てろ」
悠理は清四郎の肩を押さえ、無理やり寝かせた。
清四郎もあまりに心配する悠理に逆らうのも気が惹けておとなしく横になる。
「大丈夫か?看護婦さん呼ぶ?」
「大丈夫ですよ、少し熱が出ただけですから」
「ごめんな・・・あたい、気付かなくって・・・」
清四郎は肩を落とす悠理にふと微笑んだ。

「前々から思ってたんですけど・・」
「なに?」
「悠理ってサイコロみたいですよね。これも一つ発見したトコなんですよ」
「はぁ?」
心底自分の行動の勝手さに落ちこんでいた悠理は、清四郎のなんの脈略もない言葉に怪訝そうな顔をした。
「そうでしょ、今だってさっきだって・・・、そうですね、今までにも結構あったんですけど。悠理って馬鹿笑いするし、そうかと思ったらすぐ泣くし、ケンカのときは心底楽しそうだし・・・。あぁでもこれじゃ、サイコロと言うよりは福笑いみたいですね」
「なんだよ−!あたいがあのおかめだって言うのか!」
悠理はそう怒鳴ってから清四郎がニコニコしているのに気付いた。
「何、笑ってんだよ。あたいは怒ってんだぞ」
拳を振り上げる悠理の腕を掴み、可笑しそうに笑う。
「いや、やっといつもの悠理になったなと思って」
清四郎の瞳はいつになく柔らかい。
「せーしろぉ・・・」
「ほら、またそんな顔する。ホントにコロコロ変わりますね、悠理の顔は」
清四郎は腕を掴んでいた手を悠理の頬に移した。
「今度は笑ってくださいよ」
「可笑しくも無いのに、笑えるかよ」
悠理は、その手を掴んで顔から外すと両手で包み込んだ。
清四郎もされるままにしている。
「なら、どうしたら笑ってくれるんですか?」
「お前が元気になって・・・また、コートしてくれたら・・・」
悠理の顔は真っ赤である。きっとこの言葉を言うのに相当勇気がいったのであろう。
握っていた手を離し、あらぬ方向を向いてしまった。
清四郎は、もう限界だと思った。
今の曖昧な関係を、あやふやなままそれでも壊すのが怖かった今の関係を、壊すときが来た、そう思った。
悠理が最初の一歩を踏み出してくれた。なら、後は自分が。
清四郎はゆっくり上半身を起こした。
「お前、何起きあがってんだよ」
慌てて止めようとする悠理の制止も笑顔でかわす。
「悠理、ここにまたさっきみたいに座ってください」
「え?ここって、ここ?」
「そう、向こうを向いてね」
「何するんだよぉ」
めちゃくちゃ照れながらも、勇気を出していったあの言葉はこの男には通じていなかったのだろうか、悠理はそう思いながらもおとなしく言われた通りに座った。
不意に後ろから、がっちりと抱きしめられる。
それは片腕ではあったが、悠理の胸の奥を締めつけるのには全く問題無かった。

夏の間は「コート」という理由が成立しなくなり、こうしてもらえるコトがほとんどなかったため懐かしさすら覚える。
その腕を抱え、感触を確かめるように瞼を落とした。
清四郎の声が優しく降りかかる。
「こうするの、久しぶりですね」
「あぁ」
「夏の間は「コート」は無理ですもんね」
「うん」
「「コート」じゃなきゃいけませんか」
耳元にかかる息が熱い。
「え?」
「そんな理由がないと・・・こうする事はできないですか?」
腕に重ねた手に力が篭った。
フルフルと揺れる悠理の髪に頬を埋め、清四郎も瞼を落とした。
清四郎の腕から力が抜け、頬に添えられる。
「悠理」
その手に導かれるように、悠理はゆっくり清四郎に向いた。
「せーしろ・・・」
ふたり共言葉には出来なかった。
今の気持ちを表わす言葉が見つからなかった。
だが、それでもいいと思った。
そして、唇は言葉でなく、本当の気持ちを伝え合った。
―――その温もりで。


「あぁら、お邪魔だった?」
ノックもせずに入ってきた白衣の人間に清四郎の眼が大きく見開かれた。
「ね、姉さん・・・」
悠理は清四郎のパジャマを掴んだまま固まってしまっている。
その顔は元の色がわからないぐらいに真っ赤になっていた。
「まだ熱も下がんないようだし、後一週間ほどこのまま様子を見させてもらうわよって言いに来たんだけど・・・。思ったより元気そうね」
ニヤリと厭らしい笑みを浮かべる姉を清四郎は顔を赤らめながらも睨むことで威嚇した。
「あら、そんな顔してイイのかしら?せっかくパパに『清四郎はもう十分元気になったようだから明日にでも退院させてあげて』って頼んであげようと思ったのに」
「ホント!」
その言葉に悠理は弾かれたようにベッドから降り、和子に向いた。
「だぁって悠理ちゃんも嫌でしょ?いつまでも病室でデートなんて」
「で、で、で、デートってそんな・・・」
先ほどの恥かしさが戻ったらしい。真っ赤になって俯いてしまう。
「ま、とにかく上手く言ってあげるから、もう少しおとなしくしてるのね。看護婦さん達もピリピリしてるみたいだし」
「どういう事ですか」
悠理を気にしつつも、冷静さを取り戻した清四郎が訝しげな顔をする。
和子の顔は相変わらず楽しそうだ。
「せーっかく若くて活きのイイ、院長のご子息が入院してきたのに、いつもカワイイ女の子が御見舞いに来てるんだもん。当てが外れたんでしょ」
「活きのイイ・・」「か、カワイイ・・・」
「それじゃま、お邪魔さま〜。あっ、いくら個室だからってヘンな事しちゃだめよ〜」
ふたりが、それぞれの言葉に固まっている間に、和子は捨て台詞を残して部屋を出ていった。

「せ、せーしろぉ・・・。どーしよ、恥かしい・・・」
ベッド脇の椅子にぺちゃんと力なく座りこむ悠理。
清四郎はその肩を軽く叩いた。
「今更どーにもなりませんよ」
「だけど・・・」
「それより姉さんのおかげで退院早くなりそうですね」
「う、うん。でも、まだこんなに熱あるんだぞ?」
悠理は思い出したように、清四郎の額に手をやる。
「大丈夫ですよ」
「ホントかぁ?」
「えぇ、でも。せっかく悠理がこの部屋に風鈴をつけてくれたのに」
「別にイイよ。風鈴はお前の部屋につければイイだろ?あたいは早くお前が元気になってくれればそれでイイ」

返事の出来なかった清四郎の代わりに風鈴がちりんと一つ鳴った。
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