「寒い日は」
「こんばんわぁ〜!」
菊正宗家のドアを開けた悠理を清四郎の母が出迎えた。
「お帰りなさい、ふたりとも。お鍋の用意、もう出来てるわよ」
「やった−!!」
靴を脱ぐのももどかしそうに、悠理は勢い込んで玄関に上がった。
その横で清四郎が苦笑しながら、マフラーを外す。
「あっ、そうだ、おばちゃん」
勝手知ったるなんとやらで、さっさとカニの元へ向おうとしていた悠理がぴたっと足を止め振りかえった。
「なぁに?」
「風邪薬ある?」
「あら、悠理ちゃん風邪ひいてるの?」
本当に清四郎の母親かと思うほど、おっとりした様子で尋ねる。
「あたいじゃなくて、清四郎。なんか、熱があるみたいなんだ」
「まだ言ってるんですか?」
悠理に追いついた清四郎が、呆れた様に言った。
「清四郎、あなた、熱があるの?」
心配そうな母親にあっさり否定する。
「ありませんよ」
「嘘だ、絶対あるって!」
「ないですってば。悠理の勘違いですよ。ほら、早くいきましょう。お腹空いてるんでしょ」
清四郎はそう言って悠理を居間に促した。

「ただいま」
居間に入ると清四郎の父、修平と姉の和子がすでに座っていた。
「おじちゃん、和子さんこんばんわ〜」
「お帰りー、待ってたのよ、ふたり共」
「悠理君、外寒かったろ。早くコタツに入りなさい」
促す修平に、悠理は「うん!」とにっこり返事をした。
清四郎とふたり並んでコタツに入る。
目の前には大きなカニが何杯も並んでいた。
「カニ、まだまだいっぱいあるのよー」
カニを見て顔を綻ばす悠理に和子が言った。
「さっき母さんもそんなこと言ってましたけど、一体どうしたんです?」
「ご近所の方に頂いたり、今年に限って御歳暮がみんなカニだったり・・・。まだ、後十箱ぐらいあるのよ」
「そ、そんなにですか・・・」
幾分げんなりした様子の和子を見て、清四郎は悠理がいて良かったと心の底から思った。
「まぁ、とりあえず食べるとするか」
「ハーイ!いったっだっきまーす!」
悠理は待ってましたとばかりに鍋に箸を入れた。

「はい、清四郎」
少しして清四郎の母が体温計を息子に手渡した。
「なんですか?」
鍋に手を伸ばそうとしていた清四郎は、体温計を見て不思議そうな顔をする。
「なんですかじゃないでしょ。一応測っておきなさい」
「イイですよ、別に。熱なんてないんですから」
断ってカニをとろうとする清四郎を悠理が止める。
「ダメだよ。ちゃんと測っとけって。熱があんのは確かなんだから」
「なんだ、清四郎。お前風邪でもひいたのか」
杯を傾けながら、珍しいものでも見るような目つきの修平。
実際清四郎が風邪を引くなど、子供の頃からこの10年ほど記憶にもなかった。
「ひいてませんよ。悠理が勝手にそう思ってるだけです」
「なんだよ、それ−!人が心配してやってるのに」
「それが心配している人の態度ですか?」
確かに悠理はカニの足にかぶりつきながら喋っていた。
「とにかく、一回測ればイイでしょ。無ければ無いで悠理ちゃんだって安心できるし、ね?」
和子は最近悠理が可愛くて仕方なかった。
今までは元気で快活な弟の友達、と言うイメージしかなかったのが、このところよく遊びに来る悠理を見るたびにそれだけではないことに気付いた。
感情の起伏が激しくまるで子供のような悠理。
他の人間がそんなならきっと和子は毛嫌いしていたはずである。
だが、悠理に関してはそれがちっとも嫌味じゃないのだ。
クソ生意気な弟も悠理の前でだけは歳相応に戻る。
もしかしたら、もっと子供のようになっているかもしれない。
彼らが六人でいるときや、幼馴染の隣に住む少女の前での態度とは明らかに違うのだ。
いつも、歳より大人びて、やることなすこと可愛げのない弟がすっかりペースを乱している。
だが、それがちっとも不快でもなく、むしろほほえましいと思える。
「わかりましたよ、測れば良いんでしょ、測れば」
たかが熱を測るだけだというのに、憮然とする清四郎。
「熱測り終わるまで、カニはお預けだからな」
悠理はそう言いながらも、顔は心配そうだった。
その証拠に、清四郎から取り上げたカニも、鍋の中のものも熱を測り終わるまで手をつけようとはしなかった。
小さく電子音がする。
悠理は清四郎が懐から出した体温計を奪い取るようにして見た。
「あー!ほら、やっぱり熱あるじゃん!!」
「ホントですかぁ?」
清四郎がそれを横からのぞき見る。
「こんなのあるうちに入りませんよ」
「何度だったんだ?」
「七度五分もあるよー」
悠理が怒ったように答える。
「はっはっは、なんだそんなもんか。悠理君、心配せんでもそんなの熱のうちにはいりゃせん」
修平は豪快に笑うと息子に酒を勧めた。
「ダメだよ、おじちゃん。七度五分でも熱は熱だろ。たくっ、医者の言うこととは思えないぞ」
悠理は差し出された杯を奪い取って言った。
「悠理、大丈夫ですよ。これぐらい」
「ダメだ!」
「それにしても、悠理ちゃんよくわかったわね。そんな微妙な熱」
和子が呆れた様に言う。
「だって、こいつの手いつもより熱かったもん」
悠理は言ってからしまったと思った。
隣の男が睨んでいる。
「手?いつも?」
和子がにやーと笑った。
「ふ〜ん、あんた達って体温の違いがわかるほどいつも手繋いでんだ」
「あら、そうなの?」
母親までもが嬉しそうに手を叩いている。
「違いますよ!悠理、余計なこと言うな!!」
「だって・・・」
(なんだよぉ別にいいじゃん。手は繋いでないけど体温がわかるぐらいってのはホントのことなんだしさぁ…。そ、そりゃあたいらは別につ、つ、つ、付き合ってるとかそんなじゃないけど・・)
真っ赤になってそっぽをむく悠理。
清四郎はその様子にため息をついた。
「ほら、悠理、まだまだカニはいっぱいあるんですからね。どんどん食べてください」
照れてしまってつい強い口調で否定してしまった。
悠理がそのことをどうも気にしているらしいことに気付いて、何事も無かったかのように自分も食べ始めた。
付き合っているともいないともいえない自分達の関係を、こんな時もどかしく思う。
どうしてもたった一言を言葉にできないでいた。
言葉にしてしまえば今のこの心地よい関係が崩れてしまう。そんな気がした。
もしかしたら心地よいと思っているのは自分だけではないのか。
清四郎はいつもその不安が心の片隅にあることを知っていた。
「悠理君、付き合ってくれないか」
すっかりむくれてしまった悠理に修平が徳利を差し出す。
「清四郎が飲まないんじゃ、わしもつまらんしな」
「おじちゃぁん・・」
修平はにっこり笑うと悠理が先ほど奪い取って持っていた杯に酒を注いだ。

酒が入ったコトで悠理の機嫌も戻ってきたようである。
「あんまり、飲ませないで下さいよ」
修平と酒を交わし続ける悠理を見て、父親を嗜める。
「大丈夫だよ、これぐらい。ねーおじちゃん」
「なぁ。まだそんなに飲んでないだろ」
妙に中のいい二人に他の三人は呆れた様に微笑んだ。
「あぁ〜!!それ、あたいが食べようと思ってたのにぃー―!!」
清四郎がカニの足に手をかけると、悠理が突然叫んだ。
「いいじゃないですか、別に。他にもまだ沢山あるんですから」
(さっきまで、手当たり次第に取ってたくせに) 
「ダメだって!!返せよーー」
「フン、嫌ですね」
「食うなー―!食うなー―!」
「あぁ、もううるさいですな。わかりましたよ」
そう言って綺麗に殻の外れたプリプリの身を悠理の口元まで運ぶ。
鳥の雛の様に大きく口を開けるその姿にニヤリと笑うと、自分の口に放り込んだ。

ふたりのそんな様子を修平達三人は優しく見守っていた。
和子が思っていたことはどうやら両親も同様だったらしい。
両親、特に修平は普段見せることの無い息子の子供っぽさに、この数年の間、感じていた罪悪感にも似たものが解けていく気がした。
清四郎には幼少の頃からありとあらゆる学問を教え込んできた。
人に恥じる事の無いように、いつも人の先に先にと立てるように。
また、清四郎自身もそれが楽しかったらしい。
期待以上に色んな分野に手を出し、今では高校に行く意味があるのかというほど博識になっている。
なまじ、運動能力もずば抜けている為、日に日に高慢になっている気がしていた。
そして、その態度はすでに高校生のものではなくなっていた。
確かにそれを喜ばしいと思う事もあった。
礼儀をわきまえ、人並み以上の常識を持ち合わせ、何処に出しても恥かしくない息子に育った。
しかし、いつしか自分達家族や隣に住む幼馴染の少女、友人達にまで、敬語で話すようになり、一線を引くようになった。
そんな清四郎を見るたび修平は育て方を間違ったのではないかと、いつも気に病んでいた。
だが、目の前にいる少女といるときだけは、素を出している。そんな気がした。
こうして子供のようにじゃれ合うふたりを見ていると、自分も知らなかった息子の一面が見えてくる。
こんなに、楽しそうに笑うのも、こんなに優しい色の瞳をする事も、つい最近知ったのだ。
そしてそのときには必ず隣に悠理がいた。
悠理が清四郎を変えてくれたのだ。
両親も和子もそう思わずにはいられなかった。
「ねぇ、みんな食べないの?」
「どうしたんですか?さっきからみんなニヤニヤして」
「べ、別に。食べるわよ−!まだまだいっぱいあるんだから」

「はぁ。お腹いっぱい」
菊正宗家にあったカニはほぼ悠理のお腹に納まった。
後ろに手をついて満足げに笑う悠理を清四郎が穏やかに見つめる。
「デザートのアイスはどうします?」
「食べる−!」
「でしょうね。ここで食べますか?それとも部屋で?」
「うーん、お前の部屋で食べよっかな。おじちゃん寝ちゃってるし」
「じゃあ先に行っててください。持っていきますから」
「うん」
「あっ、そうだ。ストロベリーとチョコがあったんですけどどっちにします?」
「ストロベリー!」

清四郎がアイスを持って部屋に戻ると悠理がクローゼットを漁っていた。
「ゆ、悠理!何してるんですか!!」
「パジャマ探してるんだ」
事も無げにいう悠理に、お年頃の清四郎は真っ赤になった。
「パ、パジャマなんてどうするんです?」
「お前が着るに決まってるだろ。熱があるんだから、さっさと着替えてベッドに入れ」
捜し出したパジャマをほらっと差し出す。
清四郎はとりあえず机の上にアイスを置くと差し出されたパジャマを受け取った。
「でも、悠理。まだ九時ですよ」
「ダメ、寝るの。お前が寝たのを見届けてから、あたいは帰る」
「寝れませんよ、こんな時間に」
「さっき風邪薬、ちゃんと飲んだんだろ。だったらすぐに眠くなるって」
一足先に満腹になった清四郎にほぼ無理やり薬を飲ませていた。
「わかりました。なら、少しの間部屋を出ててくださいよ」
「なんで?」
「着替えられないでしょ!それとも、僕が着替えてるとこずっと見てるつもりですか」
楽しそうに言うと服を脱ぎ始めた。
「バ、バカ!脱ぐなよ!」
「だって、脱がなきゃパジャマ着れないですし」
「わーった。わかったから、あたいが部屋出るまで待て!」
悠理は慌てて部屋を飛び出した。



「悠理、イイですよ」
中からかかった声に部屋に入る。
清四郎はベッドには入っていたが上半身を起こしてこちらを見ていた。
「あー!ダメだって。ちゃんと寝てろよ」
悠理は無理やり清四郎を寝かせる。
「ねぇ、悠理。ホントに僕大丈夫なんですけど?」
「ダメ!風邪は引き初めが肝心なんだぞ。医者の息子のクセにそんなこともわかんないのか?」
悠理は呆れ顔で言うと、ベッドの横にちょこんと座った。
「悠理、まだ気にしてるんですか?」
本当に寝るまで帰らないつもりのような悠理の顔を見つめる。
昼間熱が出たのは自分のせいだとしきりに心配していた悠理。
何度違うと言っても信じようとはしなかった。
「だって…」
「言ったでしょ?悠理にコートをしていると、僕も暖かいんですよ。だから、熱が出たのは悠理の所為じゃありません」
「でも・・・」
「そんな顔しないでくださいよ。看病する方が病人みたいですよ」
悠理に悲しげな表情をさせてしまった事を悔いつつ明るく言う。
「そだな。出ちゃったモンはしょうがないか。とりあえずその熱下げないと。あたい、おばちゃんに言ってタオルと、水貰ってくる」
「そんなモンどうするんです?」
やっといつもの明るさを取りもどした悠理に不思議そうに聞く。
「どうするって。タオル濡らしておでこに置くんだよ」
悠理の腕を掴んで部屋を出ていこうとするのを止めた。
「な、なに?」
「そんなもの要らないですから、ここにいてください」
悠理の顔が赤くなる。
「ダメだよ・・ちゃんと冷やさなきゃ」
そう言いながらもまたベット脇に座りこむ。
「これぐらいの熱、寝てれば直ります。それより・・・」
清四郎の眼は真剣そのものだった。
真っ直ぐ自分を見つめている。眼が逸らせない。
悠理の顔は熱がある清四郎より赤くなった。
「そ、それより・・・?」
腕を掴んだまま半身を起こす清四郎。
悠理は掴まれていない方の手でシーツをぎゅっと握り締めた。
「悠理・・・・。悠理のクラス明日数学の小テストだとか言ってませんでした?」
「は、は?」
「ダメですよ、僕の看病にかこつけて出来なかったとか言うつもりでしょ。ちゃんと、試験勉強してもらいますからね」
「な、なに?」
「ほら、僕のカバンとってください。中に数学の教科書入ってますから」
悠理はただ言われるままに動いた。
全身から力が抜ける。
そして、自分が期待していた事に気付いて動きが止まった。
(あ、あたいなに考えてたんだよ−−!!うわーうわーー!!)
「ほら、さっさとする」
ベッドの中から清四郎が急かす。
だが、清四郎も内心焦っていた。
(ぼ、僕は何をする気だったんだ・・・・。悠理に・・・)
「あ、あたい数学の勉強なんてやだ」
悠理が背を向けたまま言う。
「じゃぁ、さっさと帰るんだ」
(これ以上、ここにいられたら自分でも何をしてしまうかわからない・・・)
「それもやだ。ちゃんとお前が寝るまでいるって決めたんだからな。大体おまえあたいが帰ったらまた遅くまで起きてるつもりだろ」
相変わらず振りかえらない悠理に後ろから声をかける。
「なら、悠理もちゃんと勉強してください。悠理だって帰ってもどうせ勉強なんてしないんでしょ」
看病と数学をはかりにかけた悠理は、結局看病したさが勝ってしまった。
しぶしぶ数学の教科書を手に清四郎の元へと戻った。

「できた!これでいい・・・」
悠理は色々書きこみすぎて真っ黒になってしまった教科書から顔をあげ、目を細めた。
清四郎は静かな寝息をたてて眠っていた。
「なんだよ、せっかく解けたのに・・」
そう呟きながらも、顔は綻んでいる。
そっとその額に手を当てる。
「まだ、少しあるみたいだな」
悠理は清四郎の肩まで布団を掛け直して、暫くの間その寝顔を見つめた。
「子供みたいだな」
軽く鼻をつまみ、身動ぎをした清四郎に小さく笑うと明日のテストへ向けその部屋を後にした。


「清四郎、元気かぁ?」
いつものメンバーが下校途中、学校を休んだ清四郎の部屋を訪れた。
昨夜帰る際、しきりに心配する悠理を気遣って、清四郎の母が無理やり休ませたのだ。
悠理の名前を出されて、それを押し切ってまで行く気もしなかった。
行けば後が怖いというのもあったが・・・。
「えぇもうすっかり」
そう言いながらもまだベッドに入っている。
上半身を起こして小説を開いていた。
「明日には出てこれそうですの?」
幼馴染の心配も困ったような顔で返す。
「さぁ、僕としては今日も行くつもりだったんですけどね。お許しが出なくて」
「お許し?おじ様の?」
「そんなところです」
悠理の顔をチラッと伺うように見る。
その視線に気付いた悠理は、何気なさを装いながら口を開いた。
「熱下がったのか?」
「元々たいしたことなかったですからね。今はもうないですよ。それより今日の小テストはどうだったんですか?」
「それがさぁ聞いてくれよ!」
テストと聞いて興奮気味な魅録に対し、悠理の頬が僅かに赤味を帯びた。
「どうしたんです?」
「悠理が零点じゃなかったんだ!」
「ほぉそれはスゴイですな」
「ちょっと待てよ!零点じゃなかっただけじゃないだろ!魅録よりも出来たんだからな!!!」
「えーー!!ホントなの悠理!!」
可憐だけでなく憮然とする魅録と得意げな悠理以外みんなが驚いた。
「スゴイだろぉ!昨日の晩みっちり勉強したからな」
「どういう風の吹き回しなの〜」
「だろー?俺ショックでさぁ・・・」
「僕だってショックだよ・・。魅録より良かったなんて。魅録、どっか調子悪かったんじゃないの?」
「俺も風邪ひいてんのかなぁ・・」
美童の言葉に魅録は真面目な顔しながら自らの額に手をやった。
「いい加減にしろよ、お前等!!あたいだってやるときはやるんだよ!!」
悠理は怒鳴りながらも清四郎の優しい視線に気付いていた。
一瞬だけ視線を絡ませる。
ふっと微笑み合った。
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